島根県邑南町の城跡
このページは島根県邑南町・瑞穂地区の城跡一覧です。
邑南町瑞穂地区(旧瑞穂町)の城跡:一覧
城名 | 所在地 | 城主 |
赤羽城 | 邑南町 布施 奥谷 | 小笠原氏 |
宇山城砦群 | 邑南町 上原 | 出羽氏 |
狼城 | 邑南町 荻原 | 小笠原氏 |
大草城 | 邑南町 大草 | 平家 |
大野城 | 邑南町 市木 大野 | 平家 |
黒岩城 | 邑南町 高原 安田 | 吉川元春 |
鞍懸城 | 邑南町 緩木 | 邑智備後介 |
小林城 | 邑南町 小林 | 福屋氏 |
小武家城 | 邑南町 市木小武家 | |
桜尾城 | 邑南町 市木 | 吉川氏(堀氏) |
車前城 | 邑南町 円ノ坂 | 小笠原氏(稲原豊前守) |
銭宝城 | 邑南町 八色石 | 小笠原氏(寺本氏) |
高城 | 邑南町 市木 | 周布氏 |
琢道城 | 邑南町 高原 高見 | 高橋氏(椿能登守) |
丹戸城 | 邑南町 高見 | 高見二郎 |
鳥屋ヶ尾城 | 邑南町 大草 | 吉川氏 |
鳥懸城 |
邑南町 緩木 | 出羽氏 |
二ツ山城 | 邑南町 鱒淵 永明寺 | 出羽氏 |
別当城 | 邑南町 和田 下和田 | 富永氏(和田氏?) |
本城 | 邑南町 下田所 | 高橋師光 |
土居跡遺跡 | 邑南町 下田所 | |
松尾城 | 邑南町 久喜 | 高橋重光? |
二ツ山城(邑南町鱒淵)
二ツ山城(二つ山城)は、貞応2年(1223)に富永朝祐によって築かれ、石見国の中では益田市の七尾城に次いで古い山城と言われていますが、明確な文献がある訳ではないそうです。
富永氏はやがて、この地の「出羽(いずわ)」姓を名乗るようになり、一大勢力を持ちましたが、正平16年(1357)に阿須那の高橋氏によって攻略され、落城しました。高橋氏は二ツ山城を本拠とせず、向かいの山に「本城」を築きました。
その後、高橋氏が毛利元就によって亡ぼされると、毛利氏の石見進出の拠点となり、城の機能は残っていたようです。
「二つ山」の名前の通り、山上は尾根に沿って二つの高い山があり、それぞれ本丸と西の丸となっています。(写真では右側の高い部分が本丸跡)
>> 二ツ山城写真集(西の丸周辺)
>> 二ツ山城写真集(本丸周辺)
関連 >>土居跡遺跡
>> 二つ山城の古い曲輪と永明寺集落
>> 出羽氏最後の決戦の地・馬野原
>> 出羽合戦
>> 姫塚物語
本城(邑南町下田所)
本城は、石見国と安芸国をまたぐ広大な地域を治めた高橋氏の居城です(地図)。もともと高橋氏は阿須那(旧羽須美村)の藤掛城を本拠地としていました。しかし、足利直冬の命令を受けた高橋師光・貞光父子が二つ山城の出羽実祐を攻めてこれを破り、二ツ山城には入らずに新たに本城を築いてここを本拠地としました。
この城の名前から、姓を「本城」とも名乗りました。有名な一族に本城経光がいます。
高橋氏はその後、石見国だけでなく安芸国北部にも領土を拡大しましたが、永正12年(1515)に、三吉氏を攻めていた高橋元光が逆に討死してから急速に力を弱め、享禄元年には松尾城の高橋重光が討たれ、次いで享禄3年には毛利元就の謀略により高橋興光も討たれ、高橋氏は滅びました。
『石見町誌』によれば、二ツ山城は政治的威容を誇示したのに対して、本城は実践的な要害の相を持ち、築城方式の違いを見ることができる、とか。ただ、本城は高橋氏滅亡後に毛利軍によってズタズタに破壊されたようです。
桜尾城(邑南町市木)
南北朝時代、市木は益田氏の一党である福屋氏の治めるところであり、福屋兼宗が「高城」(市木浄泉寺の裏山)を築いて守っていました。
しかし、暦応4年(1341)安芸新庄の吉川氏が市木に侵入して福屋氏を破り、桜尾城を築きました(地図)。
桜尾城を守ったのは吉川氏の家老・堀氏でしたが、天文18年、毛利元就によって吉川氏が乗っ取られると、時の城主堀重利は吉川氏を離れて福屋氏に味方しました。
福屋氏は毛利の小笠原攻めには力を貸していましたが、その後毛利に反旗を翻し、堀重利は三坂の戦いで毛利軍に破れ、桜尾城内で討死したと言われています。
現在は登山道が整備されており、気軽に登頂することができます。
別当城(邑南町和田)
もともとは久永荘の荘官が、二ツ山城の富永氏(出羽氏)に対抗する為に築かれた城とも言われます(地図)。
出羽氏の勢力が強くなると共に廃城となったようですが、康安元年(1361)に阿須那藤掛城の高橋師光が二ツ山城を攻撃した際に別当城に陣を敷いたと言われます。
また、永禄元年(1558)には、二ツ山の吉川元春と戦う為に尼子方の本城常光がここに陣を敷きました(出羽合戦)。
現在は、登山道が整備されています。
銭宝城(邑南町八色谷)
川本の小笠原氏の出城。交通の要所であり、出羽方面への拠点として、家臣の寺本氏を配置していました。向かいにある龍岩神社の山も防衛機能の役割を果たしたとも言われます。(地図)
寺本氏が日和城(邑南町日和)に移り、同族に守備させていた模様。地元伝承によると、吉川元春による攻撃に対し、竹の皮を敷いて防御しましたが逆に焼き討ちされ落城したという。その時の守将や女房たちが自刃した場所が「地獄谷」「神さん谷」という地名として今日残っているそうだ。
ちなみに「銭宝」という地名は、古にこの地へ鋳銭司が渡来したことから由来しているという(石見八重葎)。
啄道城(邑南町高見)
高橋氏の家老・椿能登守政盛の居城。
現在は採石場となり遺構は消滅しています。
(地図)
宇山城砦群(邑南町原村)
高橋氏によって二ツ山城から追われた出羽氏ですが、明徳3年、大内義弘の調停で高橋領より二百五十貫の地を返還されました。君谷から宇山に移った出羽祐直が築いたのが、この宇山城砦群です。
高橋領に囲まれていただけあり、その警戒度からか多くの城跡から成り、毛城(地図)、赤城(地図)、白鹿城(地図)の山城の他、麓には信友城、樹光城(地図)が築かれています。
高橋氏は宇山の出羽氏を警戒して、向かいに野田原城を築きましたが、その遺構は現在遺っていません。
ちなみに、平成7年に林道整備の為に赤城の一部で発掘調査が行われており、その報告書も出ています。
松尾城(邑南町久喜)
久喜銀山を守るかのように築かれた城跡です。(地図)
享禄2年、毛利元就は、高橋重光・興光親子が尼子に接近していることを理由に松尾城を攻めました。これは久喜の松尾城か、安芸高田の松尾城か、文献が別れています。久喜地元伝承にも元就によって攻められたとあるそうで、時期的には久喜の松尾城と見るべき、と『羽須美村誌』にはありますが、久喜の松尾城の規模は主郭に腰郭の砦規模のようで、高橋重光の居城とするのは不自然なんだそうです。
堀越城(邑南町山田)
現在、公園化されゲートボール場になっていますが、以前は慶光坊という尼寺があり、中世は城館として機能していたようです。(地図)
平成6年、県道設置の為に発掘調査が行われ、多くの郭群と堀切状遺構が確認されました。また、石積遺構も発掘されましたが、中世城跡に関するものかどうかは不明。城についての文献も無く、調査上字名から「堀越城」と呼ばれました。
おそらく現公園を主郭として、南側の尾根を何重かの堀切で遮断する単郭の館跡だったのでしょう。
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