島根県邑南町の城跡
ここでは、島根県邑南町・瑞穂地区の城跡を紹介しています。
二ツ山城 写真集
二つ山城は、石見国内でも益田七尾城についで歴史の古い山城です。築城は貞応2年(1223)と伝えられますが、この年代は実はハッキリしません。麓の永明寺集落に館を構え、初期の城跡は二つ山南側尾根筋の小さな規模であったと推測されます。
その後、康安元年(1361)に高橋氏によって攻められ、出羽実祐は討ち死に、二ツ山城は落城。高橋氏は南側の山に本城を築き拠点としますが、高橋氏時代の二ツ山はどうなっていたのかは不明。
毛利元就によって高橋氏が滅ぼされると、この地も出羽氏の手に戻った。大内氏による尼子攻めや、毛利氏により度々この二ツ山城が中継基地として本陣の役目を果たした。
現在の遺構は、毛利元就による石見侵攻の前線基地として使用された時期のもので、特に出羽氏が毛利元就の六男・元倶を養子にもらった時の形であると思われます。事実、本丸東側の一段高い郭は方形を保ち、敷石も存在することから、元倶の館として築かれた跡なのでしょう。
ちなみに、本丸と西の丸では出土品種類に明確な違いがあるそうで、本丸の生活用品に比べ、西の丸は出てもかわらけ程度。東は生活の場で、西は実戦用ということでしょうか。つまり、神明空堀は完全に城を分断し、一城別郭と考えてもよさそうです。また、麓からの登城路は神明空堀に行き着くようにされており、敵をここへ誘い込んで両側から攻撃する意味もあったのでしょう。
本丸の案内板に記載されている、出羽元実が出雲国頓原に移封という事実は無いそうです。元倶が1571年に夭折した後、出羽元勝が継ぎましたが、天正19年(1591)備後品治郡に領地替えとなっています。その後、出羽氏は毛利家の防長転封に従い萩に移りました。
このページでは、二ツ山城跡の、西の丸周辺の写真を掲載しています。
>>(次ページ)二ツ山城 本丸周辺
>>(関連)二ツ山城の古い曲輪跡と永明寺集落
(撮影:2020年2月、2023年4月)……2007年撮影はこちら
二ツ山城 縄張図(『石見の城館跡』より引用)
二ツ山城 航空写真(Google map)
このアルファベットを使って場所を示していきます。
永明寺集落から見た二ツ山城
麓の永明寺集落から車道があり、駐車場があります。
2022年のイベントに伴い、パンフレットが設置されました。
城の西側尾根を堅く守る三重の堀切(縄張図A)
写真では2本あるのが分かります。
堀切は、かなりの深さを持ちます。
堀切は相当下まで落としています。
上の写真で見えなかった3本目の堀切
完全に尾根を遮断しています。
3本の堀切部分
「天神丸」と呼ばれる曲輪(縄張図B)
西側に土塁があり、三重堀切を監視する役目を持つ曲輪です。
「水仙ケ丸」と呼ばれる曲輪(縄張図C)
この下には殿様池と呼ばれる水の手が存在します。
殿様池
現在でも水をたたえています。
案内表示では「泉水の段」とあります。
西側には小さく土塁を設けていますね。
「蔵の段」と呼ばれる曲輪(縄張図D)
蔵の段は、中央が一段高くなっており、石積遺構があります。
ここからは鉄砲玉が出土しており、武器庫があったのかもしれません。
蔵の段の石積遺構。
二ツ山城内での石垣遺構はここだけです。
西の丸(縄張図E)
西側のピーク。実は城内での最高所。
南側から見る西の丸
曲輪の形が尖っており、敵を監視しやすくしています。
蔵の段から、神明空堀を見下ろします(縄張図F)
すさまじい規模の堀切です
神明空堀。
登城路を登ってくる敵兵はここに辿り着き、両側の曲輪から挟撃される恐怖の場所。
ただ、ここで城が二分されるので、一城別郭の様相ともいえます。
神明空堀に隣接する「神明の段」(縄張図G)
神明の段より空堀を見下ろします。
舞殿の段(縄張図H)
奥の一段高いところが神明の段
馬場(縄張図I)
その名の通り、実に細長い曲輪です。
馬場には一段低く犬走りのように通路を設定しています。
馬場の端から、主郭へ登って行きましょう。
(次のページ)→二ツ山城写真集(本丸周辺)へ
(神明空堀について)
解説本には「登城路を登ってくる敵兵はここに辿り着き、両側の曲輪から挟撃される」とあるのですが、どうも違うような気がする。
それだけの理由で、城を分断する巨大空堀を設けるとは思えない。
永明寺からの登城道は途中深い竪堀で遮断され守りは鉄壁。登ってきても、この空堀には着かず、敵は東の本丸を目指すと思う。
また、西側の曲輪群は明らかに西側を警戒しており、神明空堀側を警戒しているとは考えにくい。
高橋氏に一度攻め落とされ、隣に本城を築かれ、その後毛利元就の石見攻めの前線基地として度々利用され、やがて元就の六男を養子に迎えた、そういう複雑な経緯を経ての縄張りであろうが、ともかく私にとっては謎の空堀である。
関連記事