島根県邑南町の歴史年表(制作中)
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治承4年(1180)
富永祐純、久永庄へ移される。
寿永4年(1185)
3月24日 【壇ノ浦の戦い】平家滅亡
貞応2年(1223)
富永朝祐、田所・二ツ山城を築城と伝わる。
永仁3年(1295)
小笠原氏、村之郷を領有。
正和元年(1312)
出羽へ刀工直綱住す。
正和2年(1313)
吉川経高、承久の変の功により大朝本庄に来住。
元弘2年(1332)
後醍醐天皇、隠岐に流される。
元弘3年(1333)
6月5日【建武の新政】
延元元年・建武3年(1336)
12月 後醍醐天皇が吉野に遷幸、南北朝時代始まる。
正平5年(1350)
8月 佐波氏の青杉城、足利尊氏方・高師泰軍に攻められ落城。佐波顕連、討死。高橋師光、戦功を挙げる。
中野・賀茂神社の神輿、この年に足利直冬より寄贈と伝わる。
正平6年(1351)
青杉城戦の戦功により、高橋師光、備中松山城より石見・阿須那に入ると伝わる。
正平8年(1353)
4月 出羽実祐、父実清の家督を継ぎ、出羽上下郷の地頭に補任される。祐忠は君谷に入る。
足利直冬、このころ石見に入る。
正平9年(1354)
4月 足利直冬、荒河詮頼の拠る川本・温湯城を攻め、落城。小笠原氏は村之郷に退く。
正平10年(1355)
足利直冬の上洛するも、足利尊氏に破れ上洛戦は失敗。
正平12年(1357)
8月 出羽実祐、弾正左衛門尉に任ぜられる。
正平13年(1358)
4月30日 足利尊氏死去。
この頃、足利直冬、松山へ進出し、高畑城に入る。
正平16年・康安元年・延文6年(1361)
3月15日 高橋氏が二ツ山城の出羽氏を攻撃。
福屋氏、矢上・中野へ進出。
9月4日 二ツ山城落城。出羽実祐自害。出羽氏の本拠は君谷へ移る。
井原・高見は小笠原氏の勢力圏へ。
12月14日 将軍足利義詮は、高橋氏の横暴を抑え、出羽郷は出羽祐忠に与えるよう書状を出す。
天授2年(1376)
7月 江津合戦、足利直冬降伏。
天授6年(1380)
井原信武、大内義弘より井原の地頭職を召し上げられる。
堀丹後守が市木椙尾社の社殿を造営。
至徳2年(1385)
安芸新庄の吉河経見が市木郷地頭職を与えられ、堀四郎光重が代官として市木に入る。
嘉慶2年(1388)
12月 将軍足利義満により、出羽氏の出羽郷領有の承認が確認される。実際は高橋氏の占拠は変わらず続く。
明徳元年(1390)
8月 大内氏より石見守護代右田氏に、出羽での高橋氏の横領を止め、高橋氏の 要害の破壊を指示。(大内氏奉行人連署奉書)
明徳3年(1393)
10月 南北朝合体
この頃、大内義弘の調停により、高橋氏領有の出羽七百貫のうち二百五十貫を出羽氏に返還させる。出羽氏は宇山に入る。
応永4年(1397)
8月 大内義弘の九州出兵。小笠原、高橋、佐波、出羽の諸氏もこれに従う。
応永21年(1414)
桜井宗信の変
嘉吉元年(1441)
【嘉吉の乱】
6月24日 将軍足利義持、赤松満祐によって殺害される。
9月10日 赤松氏討伐戦により、赤松満祐自刃。石見守護山名教清ら石見勢も出陣、高橋朝貞が蟹坂にて戦功あり。
宝徳2年(1450)
吉川氏と綿貫氏の川戸領を巡る紛争。高橋光世が調停に入るよう要請される。
応仁元年(1467)
【応仁の乱】
文明8年(1476)
3月 佐波秀連と出羽太祐が協力して、小笠原長弘と合戦。
文明10年(1476)
井原信信(信武の子)の嫡子信成、小笠原氏に庇護され神南備寺の社職となる。
永正4年(1504)
君谷合戦にて井原信成が討死。
11月 大内義興、足利義尹を奉じて上京する為、山口を出発。石見諸将も従軍。
永正10年(1513)
5月 高橋元光、三次の三吉氏家を攻める。
永正12年(1515)
3月29日 高橋元光、備後入君にて討死。弘厚の子・興光が家督相続。
永正13年(1516)
8月 毛利興元死去。息子幸松丸(母は高橋興光の姉)が家督相続。
永正14年(1517)
10月22日 有田合戦。毛利元就が武田元繁を討つ。
大永2年(1522)
6月 尼子経久、石見出兵。先陣の亀井秀綱、宍道、三沢ら高橋氏の出羽本城に着陣。
7月 尼子軍、重富城、乙明城を攻略。
大永3年(1523)
8月 幸松丸死去。叔父の毛利元就が家督相続。
大永6年(1526)
3月 石見銀山の採掘が始まる。
12月 浜田天満畷の合戦。大内軍と尼子軍が激突する。
享禄2年(1529)
5月 毛利元就、高橋氏の松尾城を攻める。
享禄3年(1530)
7月 毛利元就、山県郡へ侵攻。
7月15日 大内義隆、毛利元就が高橋氏旧領の上下荘を支配することを認める。(大内義隆書状)
12月 毛利元就、阿須那を攻め、高橋興光自害。これにより高橋総領家滅亡。
12月11日 大内義隆、毛利元就が高橋氏旧領の阿須那・船木・佐々部・山縣を支配することを認める。(大内義隆書状)
享禄4年(1531)
2月 毛利元就、出羽祐盛に高橋氏旧領の出羽を返還。
2月 大内義隆、小笠原氏に命じて邇摩の矢滝城を攻めさせ落城。石見銀山奪回へ。
3月 毛利元就、高橋氏旧領の口羽村の土地を厳島神社へ常燈油料として寄進。
5月 毛利元就、高橋氏旧領の山県郡今田などの地域を吉川興経に与える。
11月 尼子経久、赤穴光清に命じて備後の高橋氏旧領の取り返しを図る。
天文9年(1540)
9月 尼子晴久、三万の軍を率いて吉田郡山城を囲む。郡山合戦始まる。
天文10年(1541)
1月14日 尼子晴久、吉田郡山より撤退開始。
11月13日 尼子経久死去。
天文11年(1542)
3月、尼子攻めに大内氏が山口を出発。先発の陶隆房が二ツ山城に諸族を招集する。
4月4日 小笠原長隆死去。子の長徳が継ぐ。
天文12年(1543)
2月 大内連合軍が尼子氏の月山富田城を包囲。
5月7日 大内氏、富田から撤退開始。
5月8日 毛利元就、尼子の追撃を受け、身代わりとなった渡辺太郎討死。小早川正平討死。
7月 尼子晴久、石見へ侵攻。佐波氏を攻めあぐねるが、石見銀山を攻略。
10月 尼子晴久、本城常光に阿須那奪還を、赤穴盛清に出羽氏の君谷攻略を命じる。
天文13年(1544)
11月、毛利元就の三男、隆景が小早川家に入る。
天文16年(1547)
7月 毛利元就の次男・元春を吉川興経が養子に迎える。
天文17年(1548)
3月 小笠原長雄、石見銀山を攻略。
天文19年(1550)
2月 吉川元春、新庄の小倉山城に入城。
天文20年(1551)
8月 大寧寺の変。陶隆房(晴賢)が大内義隆を討つ。
天文22年(1553)
12月 日和にて小笠原氏と福屋氏が衝突。
天文23年(1554)
11月 毛利元就の策略により尼子新宮党が滅ぶ。
天文24年・弘治元年(1555)
10月1日 【厳島合戦】毛利元就が陶晴賢を撃破。
弘治2年(1556)
2月 吉川元春、宍戸隆家・志道道良らを伴い阿須那に屯営。石見銀山奪取へ動き、山南の小笠原方の城を攻略。
3月 吉川軍援護の為、佐波氏は竹や飯山で小笠原氏を攻撃。福屋氏は田津で小笠原氏と交戦。
5月 吉川元春、石見銀山へ侵攻。山吹城降伏。
10月 毛利元就、口羽道良に小笠原領都賀東を与える。
11月 佐波氏、吉田郡山にて元就に忠誠を誓う。
弘治3年(1557)
3月 益田氏、毛利に降る。
4月 吉川元春、井原・雲井城を攻める。
5月 井原・雲井城落城。城主小笠原長秀は川本へ逃れる。
12月 吉見氏、毛利に降る。
永禄元年(1558)
2月 吉川元春、小笠原討伐に向け二ツ山城に着陣
2月 出羽合戦?
3月 吉川軍の杉原盛重、日和城を攻略。寺本氏は毛利に降る。
4月下旬 小笠原氏により日和城奪還を試みるも敗退。
5月 吉川元春により、小笠原氏の温湯城包囲戦。
5月24日 赤城落城。
7月 尼子軍、小笠原救援に向かうが江川渡河ができず断念。
8月中旬 小笠原長雄降伏。
9月 石見銀山の山吹城が尼子軍により落城。本城常光が入る。
永禄2年(1559)
矢上・明賢寺の前身である峠寺創建
永禄3年(1560)
5月19日 桶狭間の戦い
6月 毛利元就、石見銀山奪取に向けて動く。別府にて尼子軍と合戦(別府合戦)
7月 毛利軍と尼子軍が忍原にて交戦、毛利方が破れる(忍原崩れ)。
7月 石見銀山(山吹城)守備の本城常光、吉川元春と交渉。
12月 尼子晴久死去。義久が家督相続。
永禄4年(1561)
福屋氏、毛利元就に背反の決意を固める。
9月 元就の調略により、重富城が福屋方に攻められ落城。重富氏滅亡。
11月 福光にて吉川元春方と尼子方が衝突。毛利元就も川本に出陣。
12月 毛利元就、中野・矢上の福屋氏討伐に動く。中野余勢城落城。矢上郡山城、熊ケ峠城落城。毛利元就、小早川隆景軍は矢上・郡山城に本営を置き越年。
永禄5年(1562)
1月 毛利隆元、矢上・郡山城にて元就に合流。
2月 福屋氏が三坂峠を越えて安芸新庄を攻めようとするが失敗。逆に追い立てられ、市木・桜尾城落城。
2月6日 毛利軍により松山城落城。
2月7日 元就、跡市へ向け出発。福屋隆兼は乙明城より逃亡。
2月15日 乙明城落城。
6月 石見銀山を守る本城常光が毛利の調略により降伏。毛利が石見銀山を奪還。
7月 毛利元就、尼子討伐に向け出陣。阿須那から都賀を通り出雲に入る。
11月5日 本城常光が粛清される。(平賀広相感状)
永禄6年(1563)
8月4日 毛利隆元急死。
10月 白鹿城落城。
11月 月山富田城攻囲戦。
永禄8年(1565)
9月20日 山中鹿之介と品川三郎右衛門との一騎打ち。
永禄9年(1566)
11月21日 尼子義久・倫久兄弟、毛利に降伏。
11月28日 富田城明け渡し。
12月 尼子義久・倫久兄弟、安芸へ移動。途中川本、出羽にて各一泊。
永禄12年(1569)
阿須那賀茂神社に神馬図額の絵馬が奉納される。
元亀2年(1571)
6月14日 毛利元就死去。
8月10日 毛利元就の六男・出羽元倶死去(17歳)。出羽氏は元祐の子・元勝が継ぐ。
元亀3年(1572)
1月 毛利輝元、出羽元勝が出羽家家督を継ぐことを了承。
天正14年(1586)
11月15日 吉川元春、秀吉九州平定戦中の小倉城にて死去。57歳
天正17年(1589)
出羽元勝、従五位下出雲守に任ぜられる。
慶長5年(1600)
9月15日【関ヶ原の戦い】
10月 毛利輝元、防長減封。
慶長6年(1601)
6月30日 出羽元実(元祐)死去。
慶長14年(1609)
10月 出羽元勝死去、57歳。
寛永元年(1624)
4月27日 毛利輝元死去、73歳。
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