島根県邑南町の城跡
ここでは、島根県邑南町・石見地区中野の城跡を紹介しています。
余勢城(邑南町中野 河原城)
余勢城(地図)は地元では多胡氏が築いた城として知られていますが、それには不明な点が多くあります。そもそもこの地に多胡氏が来た一級資料が無く、いつの間にか発生した伝承の域なのでしょう。城跡もタタラで削られ、更に公園化されて元の形を残していませんが、西側の比高が無く、城というより陣地跡です。南東方面は現在田んぼですが、築城当時は沼地であったようです。また、現在でも「堀」という名を持つ田があるそうで、空堀跡と言う人もあります。
永禄4年、福屋氏が毛利元就に反旗を翻し、吉川元春軍が侵攻、この中野にて激戦となります。福屋方は丘陵に陣を構えて戦いました。その陣所跡がこの余勢城跡として現在に伝わるものと思われます。
この地での、多胡氏については諸説あります。以下の多胡氏に関する記述は、大正時代に発行された『石見誌』を元としておりますが、史実と辻褄が合わない点も多く、あらかじめ不明点が多いことをご了解ください。
反論については、『中野に多胡氏はいなかった』をご覧ください。
応仁2年、多胡越前守俊英は応仁の乱の戦功により中野の地を与えられ余勢城を築きました。その俊英の孫にあたるのが、尼子氏に仕えた有名な武将・多胡辰敬ですが、天文12年(1543)、辰敬は弟の正国に余勢城を任せて、自分は岩山城(大田市)に移りました。
その後、福屋氏が毛利に反したことから、永禄2年(1559)吉川元春らの毛利勢により余勢城は攻撃を受けます。しかし、正国やその軍師・沖弾正がこれをよく防ぎます。特に永禄4年8月の戦いでは、多胡勢が敵陣に夜討ちをかけ、吉川側は児玉興三郎をはじめ500人の討死を出したと城跡にある石碑には記されています。さすがに500人は大げさな気がしますが、それほど毛利側は苦戦したようです。こうなると、謀略を使うのが毛利の常套手段です。吉川軍は多胡正国の家臣・別所小三郎宗晴をひそかに味方につけ、宗晴は正国の子・秀光を殺害して城門を開き吉川軍を城内に入れた為、防戦かなわず永禄5年(1562)1月、余勢城は落城しました。
城兵500騎はほとんどが討死し、残った正国ら7騎は郡山城に逃れ、沖弾正は余勢城に火を放って自殺。郡山城でも吉川軍を防げず、正国は兄のいる岩山城に落ち延びたと言われます。
以上が『石見誌』を元にした流れです。
余勢城の戦いを記したものはいくつかあり、その日付も内容も差があり、不明な点も多いです。『安西軍策』によれば永禄三年のことになっており、戦いの様子は「吉川元春が先陣、元就が後陣となり、先陣吉川軍は射られても切られても少しもひるまず、二重の柵を乗り越え、これを見た宍戸、熊谷などの隊も攻め込んだ。首級は八百五十余」という内容で書かれてあります。石見町誌では、そのあたりを「諸書、混乱がある」としていますが、戦があったことには違いありません。
ちなみに、多胡を裏切った別所宗晴は、主君を裏切ったことから元就の信頼を得られず、その後殺されたという話が残っています。
この余勢城戦に際し、毛利元就が中野・賀茂神社に鳥居を寄進し、戦勝を祈願したと伝えられています。
さて、現在の余勢城跡地ですが、整備されて公園となっていますので、非常に訪問しやすいです。入口には石碑が立っており、農道から城跡へ車が入れる道があります。
ただし、この公園は古い遺構の上に新たに土を敷いたもので、本来の形ではありません。そもそも戦国以降、鉄穴流しが行われ、畑としても転用されて、近年では旧中野小学校の造成に土が使われたりで、専門家によると「原型を留めていない」ということらしいです。周囲を散策すると、虎口や土塁らしき遺構が認められるのですが、戦国期のものかどうか実に怪しいものなのだそうです。
公園内には、城の歴史について記された石碑がいくつか建っています。沖弾正の石碑もありますね。それにしても、それ以外の関係ない石碑が山のように建てられていて、理解不能です。聞けば、財産家が投資をされたそうなのですが、かなり風変わりな城跡公園となっています。
>> 余勢城 写真集
多胡氏と多胡辰敬
『石見誌』や笠森氏のまとめた伝承によると、多胡氏はバクチ打ちの名人の家系で、足利義満に仕えていた多胡小次郎重俊は「多胡バクチ」と言われるほどバクチ名人でありました。
余勢城伝本丸跡 |
その後、重行、高重と続きますが、辰敬の祖父にあたる俊英はバクチをやめ、京極氏に仕えて応仁の乱で活躍しました。その手柄で、応仁2年、邑智郡中野四千貫の領地を与えられ、余勢城を築きました。
俊英の子は忠重。出家して入道慷休と名乗り、武芸の達人であったと言われます。
さて、忠重の子・辰敬は幼くして将棋に堪能で、6歳の時に京極政経に将棋の才能を褒められ、その評判で12歳の時に京都へ出向きます。
しかし、そんな自分の人生に悩んだのか、石見に戻って25歳ごろから10数年ほど放浪の旅に出ます。その旅で何か哲学を得たようで、38歳ごろから尼子氏の家臣として活躍するようになります。
天文12年(1543)59歳の時に、尼子晴久の命により刺鹿岩山城主となります。中野余勢城は弟の正国にまかせたと伝えられます。「命は軽く名は重い」で有名な「多胡家家訓」は、それから書かれたものと思われます。
余勢城落城により正国は岩山城に逃れますが、そこも吉川元春軍に包囲され、多胡辰敬、正国ともども討死したとも伝えられます。
津和野初代藩主の亀井政矩の父亀井茲矩の母は、多胡辰敬の娘であり、津和野藩の家老・多胡家も多胡辰敬の子孫と言われています。
毛利氏側の記述
『石見誌』見られる余勢城での多胡氏との戦いについて、毛利氏側の『陰徳太平記』などの古文書には残念ながら出てきません。
西隆寺と「ドウショウ坂」
西隆寺本堂 |
中野にある真言宗の寺・西隆寺(地図)は余勢城主代々の祈願所と伝えられ、寺の開基は元享元年(1321)の鎌倉時代と言われます。本堂内にある大日如来座像は町指定文化財で、賀茂神社の神向寺三重塔に祀られていた室町時代の作と伝えられています。
ちなみに西隆寺の梵鐘は太平洋戦争中に使用された松根油採取の鉄釜をそのまま使用し、今日に至っています。
この西隆寺の南西に「ドウショウ坂」という坂があります。現在は舗装されていますが、数十年前までは大きな杉の木に覆われて昼でも暗く、かなり怖い道だったそうです。更に、坂の途中に残る大杉は『首切塚の大杉』と呼ばれ、罪人を処刑した場所として伝えられ、五輪墓が沢山存在するそうです。また、地元の別の言い伝えによると余勢城の敗残兵が毛利軍によって処刑された場所でもあるそうで、とにかく恐怖のスポット。これは通ろうか通るのをやめようか、どうしようか、ということから「ドウショウ坂」と名付けられたようです。
>>(関連)余勢城の処刑場? 段原「ドウショウ坂」の首切塚
源太ヶ城(邑南町中野 町)
築城時期など明確な文献は残っていませんが、平城ー稲積城の井原防衛ラインの目と鼻の先にあり、つまり福屋氏の最前線に位置する砦なので、重要な意味を持ったと思われます。
ある資料では、城主が中村康之とありますが、永禄4年、吉川元春による福屋氏攻撃の戦いで落城したものとみられています。(地図)。
現在の城跡は、一部土地改良によって畑になっていますが、主郭や西1郭など主要な部分は明確に残されています。左の写真は、城を北側から見たもので、左側の高い部分が主郭、右側の高い部分が西1郭となり、手前の桑畑が城北側の郭群となります。
地元の人に聞いたところ、昔、北側の郭跡に家を建てようとしたところ「ここは城跡だからだめだ」と止めて山を拝んだ人があったそうで、今でもここに家は建てられないそうです。
尚、城跡内には読誦塔、慰霊碑、五輪墓の一部が存在します。
>>源太ヶ城 写真集
以下に掲載した 「石見町の遺跡」の城郭図は、かなり詳細に測量されています。それにしても、この図では郭が多すぎますし、防衛能力がありません。これを守り切るほどの兵力は無かったでしょう。たぶん後世の畑まで郭表記してしまっているのでしょう。
東明寺城(邑南町中野 片田)
吉川元春による雲井城攻めの際、築かれたのがこの東明寺城(地図)と言われています。雲井城は戦いが始まって一ヶ月ほどで落城していますから、その間、毛利方の陣所になった簡易的な城とみられています。
伝承では、築城は中野・余勢城の多胡辰敬ともあるようです。また、実際に本陣は山の麓の「東明寺跡」にあったのではないか、という考えもあります。
ただし、あくまでこれは「伝承」であって、実際に明確な遺構が発見されていない為、吉川の陣城は別の場所にあったのではないかという見方もあります。というのも、日和城攻めの際の大谷山城や、温湯城攻めの際の会下山城のような、尾根沿いに幾重もの段を構える毛利特有の陣城遺構が全く見つからないからだそうです。
では、実際吉川元春はどこに陣を構えて雲井城を攻めたのか、今後の調査に期待したいところです。
東明寺山には登ったことがありませんが、農道から登山道があるそうで、山頂からパラグライダーをする人もいるそうです。山頂には自然的な削平地があるそうです。
写真は、中野茅場方面から見た東明寺山です。
別所城(邑南町中野 上別所)
地元別所集落では知る人がいなかったようですが、西側に「城ケ谷」という地名を残していることから調査で登ったところ発見された城跡です。ですから『石見町誌』にも、『日本城郭大系』にも『島根県遺跡データーベース』にも掲載されていない、謎の城です。発見後『石見の城館跡』には追記で掲載され、昭文社の道路マップにも、なぜか「別所城跡」と掲載されています。
名勝・鬼の木戸の北西側に位置する小高い山の上に存在します(地図)。城の東西は切り立った地形で攻めることができず、南側も急峻ながら何段もの郭を設けています。弱点である北側斜面には畝状空堀群を設けて見事に守りを固めています。ところが、主郭周辺はなぜか刻み込まれており、これは破城の跡と思われます。瑞穂地区の本城が酷い破城を受けていますが、それとは少し違う破城方法ですので必見です。
一説によると、余勢城の水源である鬼の木戸を守る為に築かれた砦跡とも言われますが、文献も伝承もなく不明です。麓の上別所集落の地積図は碁盤の目をしているそうで、古くは館や村があったのでしょう。その詰めの城の役目を果たしたと思われます。
牛之市城(邑南町中野 牛ノ市)
牛ノ市城(地図)は、慶長2年(1597)豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し、中野仲祖家三代三男の小林仁王四郎房辰(月森氏祖)が従軍し、高麗の陣の功績により牛之市を賜り築いた城です。戦国末期の、こういったパターンで設けられた城は、この地域では極めて珍しいのではないかと思います。
言い伝えによると、
小林房辰は余勢城の戦いで破れた将で、逃れて牛ノ市に住み着いたそうで、朝鮮出兵の手柄で所領を認められた、ということらしいです。
後年、小林房辰は落魄し、牛之市は人手に渡り押山城に住んだと云われています。死後地主神として祭られ、大正2年10月2日八幡宮に合祀されました。墓は、上屋敷駄屋の後、古墓地内に頭のとがった石があるそうですが私は未確認です。小林房辰の子孫も存在し、代々の墓が矢上に移転されています。
ちなみに、仲祖家は室町時代に温泉津より来住した名門の家系。
現在の牛ノ市は、昭和48年に4世帯がすべて他地区へ移転した廃村で、とんでもなく山の中にあります。しかし、断魚溪を抜ける道ができる近年までは中野から川越などの江川方面へ抜ける交通の要所でした。名前の通り牛の市場が開かれ、ここで宿泊する人も多くあったようで、かつてはにぎわいを見せた場所なのでしょう。
ということで、牛ノ市を訪問することは容易ではありません。断魚から八幡へは舗装道路がありますが、その先は整備されていない泥道です。オフロード車で突入した人もあるみたいですが、こちらの記事を参考までに。
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