島根県邑南町の城跡

邑南町の観光名所、歴史の紹介

ここでは、島根県邑南町内にある歴史スポットや観光名所などを紹介しています。

中野・多胡氏伝承を考える

 尼子氏の武将・多胡辰敬が余勢城(邑南町中野)にいたという伝承があると言われます。
 ただ、これについては諸説あり、以下は元田所公民館長である吉川正氏による「多胡氏」についての論文『中野・多胡氏伝承を考える…中野に多胡氏はいなかった』です。本人の了解を得て、ここに紹介させていただきます。

はじめに

 平成二六年邑南郷土史研究会から「多胡辰敬の教えと郷土」が刊行された。その中で 『多胡氏は応仁二年(一四六八) 出雲守護京極氏から中野を与えられ余勢城を居城としていたが、吉川元春に攻められ激戦の後、永禄五年元旦に落城した』とされる中野多胡氏伝承があたかも史実であるかのように記述されている。
 しかし当時の中国地方の動向や、この地域の社会情勢の中ではこのようなことはあり得ない話であり、 多胡氏がこの邑南町中野にいたことはないと考えている。

「多胡辰敬の教えと郷土」 の記述内容や中山氏の講演の中で、多胡氏が中野にいたとされる伝承の根拠とされる資料は次の八点である。

1.「石見誌」(天津亘編集)に引用されている 『元就記』の記述
2. 賀茂神社所有の願文と「石見誌」所載の吉川元春の戦勝祈願願文
3. 沖家所有の沖弾正決別状
4. 西隆寺の過去霊簿
5. 沖家所有の感状 (多胡正国より沖正藤へ)
6. 上田家文書・都濃国屋文書
7. 下田所敏斉本 多胡辰敬教訓状写し

これらについて毛利家文書などから検証し、中野多胡氏伝承が歴史的史実ではなく、いかに根拠のないものであるかを示しておきたい。

古文書からの検証

1.「石見誌」(天津亘編集)に引用されている『元就記』の記述について

「石見誌」では『元就記』 からの引用として、吉川・小早川軍と中野城主田子十郎時隆の間で激しい戦いがあったかのように書かれている。 資料①
しかし引用されたとされる『元就記』については現時点でその有無を確認できない。国会図書館に同名の古書蔵書されているが、これは国会図書館書誌詳細で見ると「森脇春方覚書」の写しであり、その「森脇春方覚書」 資料②には多胡氏に関する記述はまったく見られないのである。
また中ノ表の戦いに関して陰徳記陰徳太平記・老翁物語・安西軍策・吉田物語・毛利記・二宮覚書・森脇覚書など、毛利家の古文書・軍記物には多胡氏の名は一切出てこない。軍記物では、中ノ村の城将としては多胡氏ではなく中ノ村山城守がいたされているのである。資料③(老翁物語では神主山城守)

2.賀茂神社所有の願文と「石見誌」所載の吉川元春の戦勝祈願願文について 資料⑨⑥

「石見誌」所載の願文によると、「従五位下駿河守藤「原元春」が永禄四年十二月十一日に戦勝祈願を行ったとされている。しかし元春が駿河守を名乗るのは、毛利家文書の中では永禄十二年十二月の起請文が初見であり、永禄十年九月の起請文では治部少輔としているのである。資料⑥
つまり元春が駿河守を名乗るのは永禄十年九月以降のことであり、永禄四年に駿河守を名乗ることはありえない。したがって永禄四年十二月十一日付けのこの願文は明らかに偽文書である。
またこれら二つの願文ともその日付は永禄四年十二月十一日となっているが、 中ノ村の戦いについては永禄四年十一月下旬には終わっていると考えられている。
中ノ表の戦いについては、毛利家の記録には十二月上旬とされるもの(「陰徳記」 「陰徳太平記」 などの軍記物・森脇覚書・二宮覚書など)、十一月上旬とするものがあるなど混乱があるが、「新裁軍記」ではこれらの軍記物と、毛利家に伝わる文書・家臣の家に伝わる文書を詳細に検討した上で、中ノ表・矢上の戦いは十一月末までに終わっていると断定している。
その根拠は霜月晦日付の元就より元春外二名宛の書状である。 資料⑦
元就から元春に書状が送られていることは、この時点で元就と元春は別の場所にいたことを示している。
他の文書から元就は中ノ・矢上の戦いの後矢上に滞在して越年し、元春は戦いの後に日和で年を越したとされている。つまりこの文書から霜月晦日には中ノ・矢上の戦いとその事後処理も済んでおり、元春は日和にいて、井下氏など市山地下人衆に対し、 福屋氏からの離反工作を始めていたのである。 その市山地下人衆に対する工作の進捗状況を尋ねていることから、晦日よりもかなり早くから日和にいて工作を進めていたことになる。
つまり十一月下旬の早い時期に中ノ表・矢上での戦いは終わっているのであり、十二月十一日という戦勝祈願の願文の日付はあり得ない。

3. 沖家所有の沖弾正決別状について 資料⑥

この決別状の日付は永禄五年正月元旦となっているが、前述したとおり中ノ・矢上での戦いは十一月下旬には終わっているのでありこの日付はあり得ない。
また、すでに落城したと書きながら、 これから城主を逃がし城を守り決戦すると述べるなど、不自然な点が多く、落城の混乱の中で書かれたものとは思えない。 かなり後世に書かれたものと思われる。

4.西隆寺の過去霊簿について資料⑨

ここには
永禄四年辛酉十二月
當村餘勢城主時隆公
落城刺束円光寺江落 永禄五二月討死
と書かれている。
伝承では西隆寺は多胡氏の祈祷寺とされているが、城主の名前を間違っている。 伝承どうりであるなら城主は正国であり、 辰敬は前城主と書かれなければならない。また辰敬とすべき所を時隆と誤って書かれていることも不思議である。
菩提寺や祈祷寺と城主の関係は極めて深いものであり、祈祷寺が城主の名前を間違えることはあり得ない。
また、多胡氏伝承やこの過去霊簿では辰敬 (時隆)の死亡したのは永禄五年二月の岩山城での戦いということになっているが、永禄五年二月は毛利家文書などから江津市川上櫃城 松山城・本明城での戦いであり岩山城の戦いではない。 資料②参照
また毛利軍が大田・大田以東に進出するのは永禄五年六月の銀山山吹城の城番本城常光の降伏以降である。
岩山城での戦いについては軍記物への記載や感状・19641軍忠状など一次文書がが全くみられないことから、実際に戦いがあったかどうかも不明である。

5.沖家所蔵の感状について資料 ⑩

この感状には禄五百石とあるが、戦国時代には貫高表示が一般的であり、後の時代に書かれた可能性が強い。
五百石は当時の中ノ村の収穫量全体に匹敵する程の数字であり、現実的な数字ではない。 戦国の末期(天正十五年一五八七頃)でも中野の物成高(税収)は二百貫(石)しかないのである。 資料12参照(吉川広家領地付立による) 沖氏に五百石を与えれば、領主の正国やその他の家臣には何も残らないことになる。
同時代としてはあり得ない禄高であり、当時の中野の総収穫量や年貢高が忘れられた、かなり後世になって書かれたものと思われる。

6.上田家文書・都濃国屋文書について 資料

時高が尼子晴久から中埜を与えられたと書かれているが、辰敬も晴久も多胡氏が中野村を与えられたとされる応仁二年(一四六八)には実在しない人物である。 時代と名前が全く合わない。
またこの時代(戦国期)に中埜あるいは中野と書かれる例はない。中ノ村あるいは中村と書かれるのが通例であり、この文書が後世に書かれたも あることを示している。
中野村二千貫余を賜ったとかかれているが,これもあり得ない数字である。 中ノ村は室町時代から戦国末期までは公称二百貫の土地である。つまり中ノ村の総生産高が四百貫(石)程度であり領主の取り分(物成高)が二百貫(石)ということである。開発が進んだ江戸時代中期の宝永年間(十八世紀初め頃) でも中野村の総収量は一一七六石、年貢高は七百石程度なのである。資料 ②
沖家感状の禄五百石・上田家文書の中埜村二千貫余という数字は当時の人にとってはあり得ない数字であり、同時代文書でないことは明らかである。 かなり時代が経ってから、当時の生産高や年貢高・石高制と貫高制の違いなどを知らない人によって書かれたものである。

7.敏斉本 多胡辰敬教訓状について 資料⑩

この教訓状写しについては次のような疑問点がある
①写本に書かれている年号への疑問
②辰敬とその弟とされる正国の関係について
①の年号の疑問について
写本では教訓状の書かれた日付について、寛正二年(一四六一)と書かれておりそれを後に抹消して別筆で大永と書き直されている。つまりこの写本の原本には寛正と書かれていた可能性が強い。寛正と大永を読み違えたり書き誤るはずはないからである。おそらく寛正二年では辰敬の年代と合わないということで後に書き直されたものと思われる。
また大永二年(一五二二)という年号も教訓状の年号と合わない。 教訓状には刺鹿岩山城に移る経緯も書かれているが、辰敬が岩山城に移るのは天文十三年(一五四四)頃とされており、教訓状が書かれたのはそれ以後でなければならない。
②の辰敬と正国の関係について
教訓状では辰敬は多胡忠重の末子であるといっている。(しかも系図では十郎となっていることからかなり下の子供と考えることができる。 辰敬には数人の兄がいたはずであり、父忠重の後を継いだとされることも不自然である。) つまりこの教訓状が書かれた時点では弟はいなかったのであり、余勢城を弟正国に託して岩山城に移ったとする多胡氏伝承は成り立たない。
ただし、これをもって前家や上田家が多胡辰敬の家系につながるという両家の伝承を否定するものではない。
両家の伝承は中野多胡氏伝承とは別に考えるべき事柄である。

多胡氏伝承についてのまとめ

永禄四年十一月~翌五年二月の石見での戦いは、毛利軍の大半が門司表での大友軍との戦いに動員されており、毛利軍本体の不在の隙を狙った福屋氏反によるものである。
この戦いの経過は、
福光城での戦い
永祿四年十一月中旬
十一月下旬
中ノ村・矢上での戦い
五年
二月上旬
二月
川上櫃城・松山城での戦い
本明城の戦い
という経過をたどっており、この一連の戦いが毛利対福屋の戦いであり, 多胡氏との戦いではないことは毛利家文書や軍記物などから明らかである。(二宮覚書・森脇覚書・陰徳記・陰徳太平記・新裁軍記など)
こうした毛利家文書と、「多胡辰敬の教えと郷土」に載せられている多胡辰敬に関する資料を検討してみると次のような疑問点が残る。
1. 「石見誌」所載の『敬白祈願之事』と書かれた吉川元春の戦勝祈願の願文は前述したとおり偽文書である事は明らかである。
この偽文書と同じ日付の賀茂神社所有の文書も、この戦勝祈願の願文にあわせてつくられたものと考えられ偽文書と考えられる。
2.賀茂神社所有の祈願書、「石見誌」所載の戦勝願文・沖家決別状の年月日は戦いが終わってからのものであり日付に整合性がない。 戦いが終わってからの戦勝祈願はあり得ない。
3. 西隆寺霊簿については城主の名前を間違っている。城主と関係が極めて深いはずの祈祷寺としてはあり得ない。かなり後の時代に伝承にあわせて書かれたものと思われる。
4.沖家感状については石高表示であり、 戦国時代に書かれたものではない可能性が高い。 石高も実態に合っていない。
5.二つの上田家文書は時代と名前が混乱しており、書かれている内容からも当時代文書とは思えない。
6. 多胡辰敬の名は多くが時隆と書かれており、同一文書を見て書かれたものと思われる。
7. また辰敬とその弟とされる正国との関係も伝承とは異なっている。 辰敬には弟がいなかったはずであり、弟に余勢城を託して岩山城に移ったという伝承は成り立たない。

これらを総合して考えると次のように考えることができる。
「石見誌」や「多胡辰敬の教えと郷土」の資料には明らかな偽書もある。また名前や年月日に誤りが多い。
このことは多胡辰敬の名前や経歴などが曖昧になったかなり後の時代に創作された伝承である事を示している。
同じ誤りをしていることから、創作された文書があり、それにあわせて後に書かれたものであると思われる。明付書状の中に「吉見被官下三、多胡左衛門尉申儀供候哉(以下略)」 資料② と書かれている。この書状では多胡辰敬は元就の同盟者である吉見氏家臣の中にいるか尋ねているのであって、元就隆元は多胡辰敬についてなにも知っていなかったことがわかる。この書状にはその直前十一月一日に起こった新宮党事件についても書かれており、元就の情報収集の早さに驚かされるのである。このように広い情報網を持っていた元就が、中野にいたとされる多胡氏や、岩山城にいたとされる辰敬を知らないというのは不思議である。
これ以前から二ツ山城主出羽氏は元就の同盟者として元就に協力しており、また元就は他の石見の国人領主に対しても働きかけを強め、福屋氏・佐波氏などが毛利氏の傘下に加わる時期である。そうした時期、中野に多胡氏がいたのであれば元就が多胡氏や辰敬についても知らないはずはない。この書状からも多胡氏一族が中野にいなかったことは明らかである。

多胡氏伝承はどのように作られたのか

では中野余勢城の多胡氏伝承はどのように作られたのであろうか。その鍵は大正十四年に刊行された『石見誌』にありそうである。
『石見誌』には次のように書かれており、あたかも「元就記」から引用したかのように記述されている。
餘勢落城の戦況は元就記に(永禄二年二月下旬市木櫻尾城合戦の次) 吉川小早川は中野村餘勢城へ押寄せ書夜息をも継ず攻めけれども, 此城主田子十郎時隆は福屋が端城と云いながら其身四千貫を領し殊に武勇を嗜み當國にて威を振るい・・(以下略)
しかし前述したように、毛利氏関係の文書・軍記物に多胡氏が中野余勢城にいたと書かれているものは存在しない。 では『石見誌』の記述はどのようにして書かれたのであろうか。
じつは『石見誌』には中野での戦いが永禄二年と永禄四年の二度あったとされている。 毛利氏の軍記物の中で中野での戦いが二度あったかのように記述されているのは「毛利記」のみである。(本来一度であった中ノ表の戦いを二度としたのは関係者による年次の記憶違いからである)この「毛利記」は明治三五年に刊行された「史籍集覧十五集」の中で「毛利元就記」 という名で載せられ、広く知られるようになったものである。(老翁物語も同時掲載)
石見誌の記述は「餘勢落城の戦況は元就記に」という書き出しで始まっているが, この「元就記」は史籍集覧第十五集所載の「毛利元就記」である可能性が強い。
つまり『石見誌』の記述はこの「史籍集覧十五集」の毛利元就記・老翁物語をベースとして、その中に田子時隆を登場させ創作されたものと思われる。
ちょうどこの頃には、明治三三年「史籍集覧第七集」の中に「安西軍策」が、大正二年には「通俗日本全史十三~十四」の中に「陰徳太平記」 が載せられるなど、毛利氏関係の軍記物が相次いで刊行されており、これらも参考にされている可能性も考えられる。
沖家感状の「禄五百石」という記述も、上田家文書の「中埜二千貫余」いう記述も大正期に作られたと考えればある程度納得することができる。この頃には戦国期や江戸時代の中ノ村の生産高やそれに対する税(物成高)がどれだけあったかが忘れられ、生産高もかなり増えていたことから、「禄五百石」あるいは「二千貫余」という数字が地域の人に抵抗なく受け入れられたと思われるからである。
このように「中野余勢城と多胡氏伝承」は、「史籍集覧十五集」などを参考に大正時代後半に創作された伝承と思われる。
その創作に当たっては、もともと前家・上田家が多胡氏にかかわる家系であるという伝承があり、それらを結びつけて作られた可能性もある。 しかし前家・上田家の伝承と中野多胡氏伝承とは切り離して考えるべき事柄である。
これまで検証してきたように、「多胡氏は応仁の乱の戦功により中野の地を与えられ余勢城を居城としていたが、永禄四年毛利方の吉川氏と華々しく戦い永禄五年正月落城した」という中野余勢城の多胡氏伝承は、歴史的史実でなく、大正期に創作された伝承である可能性が極めて強い。

地域の成り立ちを知り、郷土愛を育て郷土に誇りを持つということは、地域の活性化に極めて重要なことである。郷土への愛着と関心がさらなる郷土愛を育てることになるからである。ただし郷土を愛するあまり、伝承と歴史を混同し、誤った歴史を後世に伝えることは避けなければならない。 誤った歴史を伝えると云うことは、誤った郷土愛を育てることとなるからである。
伝承は地域への強い思いから作られることが多い。特に山城については、地域での思い入れが非常に強く、誰々が何時頃に築いた。誰々と激しく戦って勝った、あるいは負けた、といった伝承が語られることが多い。しかしそれを証明できる資料が見つかることはほとんどないのが実情である。
伝承がすべて誤りということではないが、何が真実で何が作られたものか見極めることが重要である。そのためには少し広い範囲での歴史上の動きや、同時代資料との整合性を見ておく必要がある。
地域の歴史を学ぶものとして常に心しておかなければならない事柄である。

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