邑南町の変遷を航空写真・地図で見る
ここでは、邑南町内やその周辺で廃村・廃集落となった地の変遷を、航空写真や地図で見てみるコーナーです。
邑南町(旧石見町)中野 八幡集落
かつては20軒ほどが農耕で暮らす集落でした。昭和48年『過疎地域緊急措置法』では距離の関係で移住対象とはならず、平成の世まで居住者がありました。
現在はもう住む人はありませんが、断魚集落からの車道もあり、電力会社や元住人により管理はされていますし、八幡宮での祭りは今でも毎年行われているそうです。
廃集落だからといって、訪問者は勝手な行動は控えましょう。猪対策のワナがありますし、それを監視するカメラも彼方此方に設置されていますので、訪問者は記録されていますよ。
現在の八幡(Googleマップ)
昭和27年の八幡周辺地図
(地理調査所発行1/50,000地形図「川本」(昭和27.2))
(以下、航空写真は国土地理院国土画像閲覧システムより引用)
昭和23年(1948)の八幡
昭和39年(1964)の八幡
昭和51年(1976)の八幡
集落中央から、八所方面の谷が「長尾山」
志谷方面の谷を「毛土」と呼んだそうです。
昭和51年(1976)の八幡の中央部分を拡大
平成22年(2010)の八幡
現在の八幡(以下は撮影2019年)
現在の八幡に残る土蔵(管理されています)
八幡宮(管理されています)
ハウス鉄骨は祭事用だそうで、今も使用されています
八幡から弓張へ向かう中国自然歩道
今は誰も通る人はおらず、荒れている模様
ただ、昔はこの道の途中にも家屋があったのだとか
長尾山へ向かう道。こちらも途中荒れています。
元住人の話によると、断魚集落からの車道は戦後につけられたもの。ですが、冬に閉ざされるほどではなかったそう。初めて電気が通じたのも昭和22年頃から。
小学生は中野小学校まで徒歩で弓張・荻原横手の山道を通っての通学でしたが、朝6時に出発しても遅刻する距離。それでも積雪があろうが通ったそうです。夏休みともなると、米俵や木炭を背負って川越まで行く手伝いをさせられたとのこと。辛い夏休みだったようです。
八幡には行商の人も通ってきて、着物や魚、薬などは米と交換で手に入りました。病人が出た場合、中野の大隅病院か田津の医者を呼んできたとか。ただ、医者を八幡に呼ぶほどのことは年に1度あるかどうかだったそう。
その元住人の宮田様から、当時の貴重な写真を提供していただきましたので、以下に紹介致します。
中央が八幡宮のある丘です
写真奥の家屋の倉は現在でも残っています
以下の写真は2009年に撮影した八幡の様子です。
>> 廃集落の変遷シリーズ一覧
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