島根県邑南町の城跡
ここでは、島根県邑南町の石見地区矢上の城跡を紹介しています。
郡山城(邑南町矢上)
郡山城 |
郡山城は、矢上盆地のほぼ真ん中に位置する丘に、築かれた城です。
もともと、矢上の地を支配したのは熊ヶ峠城の三宅氏で、福屋氏方の武将でした。小笠原氏と福屋氏の争いが激しくなったころ、井原の雲井城に対する前線基地として築城されたのが郡山城です。つまり、熊ヶ峠城の支城になります。城主は矢上筑前守勝平と文献にあり、ちなみに、三宅氏と矢上氏は同一家族です。
築城時期については、応仁の乱の頃とみられており、東軍に属した田所の高橋氏に対し、西軍に属した福屋氏が、三宅氏に命じて郡山城を築かせたようです。しかし、もともとこの地には平安時代から郡庁があったと見られ、それが発展して城になったとも考えられています。
さて、毛利元就による小笠原氏攻撃戦に、毛利方として参陣していた福屋隆兼でしたが、小笠原氏降伏後の領土分配での不満がつのり、隆兼は永禄4年(1561)、毛利に反旗を翻します。同年11月、福屋氏は福光で吉川軍の攻撃を受けて敗退、川本に出陣した毛利元就は福光戦の後の12月上旬、宍戸隆家と福原貞俊らを、福屋側の中野・矢上・日貫へ侵攻させます。
福屋方の中野・余勢城で激しい戦いとなりましたが、毛利の攻撃を防ぎきれず、郡山城に引きますがそこでも敗退。どうも毛利軍にかなわないと思った矢上筑前守は城をそのままにして逃げたようです。熊ヶ峠城も焼かれ、戦いは終わりました。三宅氏は、熊ヶ峠の落城とともに滅亡したようです。毛利元就は、そのまま郡山城に止まったようで、九州で大友氏と戦っていた小早川隆景がここで合流しています。
郡山城 主郭 |
ところが、そこで大雪となり行軍ままならず、福屋氏ににらみをきかせる為、毛利元就・隆景軍はそのまま郡山城で越年しました。この時、吉川元春軍は日和に駐留しました。
年も明けて永禄5年2月、再び福屋氏への攻撃が始まり、2月29日、福屋氏は滅びました。
さて、問題は郡山城の位置です。石見町教育委員会発行の冊子『石見町の遺跡』によれば下図の通り、広い削平地と土塁を持つ山にあったと記されています(地図)。ところが、専門家によると、これはかんな流しにより削られた跡と見られ、不明な点が多いのとのことです。
実際『石見町誌』に掲載されている郡山城は別の山になっており(地図)、その山もかんな流しで相当の破壊を受けています。しかし、主郭の一部と竪堀が残っていますので、ほぼ間違いなさそうです。
詳しくは、郡山城の真実のページで紹介致します。
(おまけ)→偽・郡山城写真集
※「石見町の遺跡」より引用
(上の地図は間違いであった模様)
飲料水を城内に引き込んだ木管の話
郡山城の築城方法について、興味深い言い伝えがあります。
郡山城の南東側は今でも沼地になっていますが、戦国当時も沼地をそのまま堀として利用していたそうです。また北西側には空堀をめぐらし、さらに北側には七つの溜池を設けていたのだとか。つまり城の周囲を堀で囲んで守りを固めていたということです。空堀の上には橋をかけていましたが、いざ合戦となると、溜池の水を一気に空堀に流し込み、城にこもって橋を落としました。更に、城内の飲料水は、溜池から空堀の下を通る木管を設けていたのだとか。笠森惣一氏によると、大正七年には、その木管の残骸が存在していたとのことです。
さて、その木管による水の取り込み口は秘密とされ、その存在を知るのはこの工事をした大工の棟梁と三人の弟子達であった。他の人夫には一切工事をさせず、初めて城内に飲料水が迎えられた時には、その4人を召してにぎやかに酒宴が開かれたそうです。しかし、その後棟梁と3人の弟子の姿を見た者がおらず、どこか遠くに飛ばされたのか、秘密は徹底して守られたようです。
……あくまで、言い伝えです。これは「偽・郡山城」に関する伝承と思われ、木管も鉄穴流しによるものと考えられます。
矢上城はどこにある?
郡山城のことを、矢上城と思いがちです。事実、そう記述してある資料もあります。
史実によると、興国2年(1341年)、足利直義は安芸守護武田信武に命じて、南朝方の福屋氏討伐に向かわせました。その戦いで南朝方は破れ、邑智備後介宗連は矢上に逃れて矢上氏を称して矢上城を築いたことになっているそうです。
この矢上城が、郡山城のこととは言えない、と『石見町誌』にはあります。
つまり、出羽二つ山城の出羽氏、雲井城の井原氏、熊ヶ峠城の三宅氏らは南朝と敵対にあった武家方であり、また市木(旧瑞穂町)も武家方の支配下にあった為、それらの抵抗勢力の少ない中間地点に矢上城が築かれたとみられる、という訳です。そこで『石見町誌』は、矢上の須摩谷・大畑谷の南方の山稜周辺に暫定的に急造されたものだと判断しています。もちろん、その遺跡も伝説も明らかではありません。
ところが、須摩谷で生まれ育った私の祖母が、「須摩谷の山奥に砦の跡を見たことがある」と言っていました。それがもし本当ならどえらいことで、いつか祖母と一緒に確認したいと思っておりましたが、それもかなうことなく、祖母は亡くなりました。
矢上城の存在は、依然、謎のままです。
ちなみに、邑智備後介について『石見町誌』には『山県郡史の研究』から引用して「邑智備後介宗連は、元弘二年(1332)、備後の品治郡(芦品郡)宮内で自刃した桜山茲俊(一の宮吉備津社職)の遺児で、のがれて安芸の山県郡より邑智郡矢上に来り、矢上氏を称して矢上城に拠ったと伝えられる」とあります。
また『石見誌』には、邑智郡瑞穂町の綾木(現邑南町鱒淵)の鳥懸城(鞍懸城)の城主であったともあります。鞍懸城の詳細は不明ですが、いずれにしても邑智備後介は雲月作戦により大多和城の戦いで破れ、そこで戦死したものと思われます。活躍時期の非常に短い武将でした。
熊ヶ峠城(邑南町矢上)
邑南町矢上と日和の境界にある標高700メートルほどの山に築かれたのが熊ヶ峠城で、旧:石見町で最大の城郭です。別名に熊ヶ頭城とも言います。
『石見町誌』によれば、その壮大さは二ツ山城に劣るものではなく、それもその筈「熊ヶ峠南城」「熊ヶ峠北城」という表記もあるように、二つあった城郭を一つにまとめた城のようです。
文献によると、「今原の城」という名前で鈴間備後守の築城ともありますが、これは日和城のことではないかという見方もあり、はっきりしません。『石見誌』によれば、足利尊氏の子孫・三宅筑前守勝貞が矢上二千貫の地を賜り延文3年(1358)に築城したとあります。ただ、足利尊氏の子孫となると、時期的に厳しい解釈になるそうで、三宅氏は平氏の子孫と見る方が自然のようです。
この三宅筑前守勝貞の妻が「福光城主・福屋隆利の女」とあるので、築城当初から福屋氏の息がかかっていたことが分かります。ただ、三宅勝貞は二ツ山城の出羽氏と行動を共にしていました。
ところが、天平16年(1361)3月
、阿須那の高橋氏の攻撃によって二ツ山城が落城すると、出羽氏の支配下であった井原は小笠原氏に、中野・矢上は福屋氏の勢力範囲に入ります。
その後、小笠原氏が尼子に通じ、福屋氏が毛利に通じて互いに紛争するようになると、小笠原の雲井城、福屋の熊ヶ峠城がまさに前線基地となりました。この争いは毛利元就の力によって福屋氏に軍配があがりますが、その後の領地問題により福屋氏は毛利に反旗をひるがえし、永禄4年(1561)12月、元就は吉川元春、宍戸隆家、福原貞俊らに中野・矢上・日貫の福屋与党の攻撃を命じます。
この時、福屋側には那賀郡神主城主:神主康之(中村康之)、岩山城主:多胡辰敬らを三宅氏の応援に派遣したと『石見町誌』にはあります。
戦いは中野・余勢城で激戦となりますが、さすがの毛利軍には押され、熊ヶ峠城は焼き討ちにあい、あえなく落城しました。三宅氏はこの時に滅んだようです。その後、出羽氏に矢上五百二十五貫地が与えられたとあります。
熊ヶ峠城落城について、民話が残っています。それによると、毛利軍は熊ヶ峠城の水源をことごとく占拠して、城内の水を枯らす作戦に出ました。ところが、城内では、敵にわざと見えるように、米を岩場から流したり、米で馬を洗ってみせたりして、城内に水が豊富にあることを見せました。そこで毛利軍は作戦を変更し、焼き討ちしたというものです。
熊ヶ峠城の跡地から焼米の炭が出土しているそうですから、焼き討ちは間違いなさそうです。『森脇谷誌』によると、出土焼米を矢上村役場庁舎新築祝いの催しの時掘り出して展示したらしいのですが、現在その焼米はどこへ行ったのか、そもそも正確な発掘場所はどこなのかハッキリしないそうです。
おそらく毛利軍としては、降雪の季節より前に決着をつけたかったであろうし、また晩秋で山が燃えやすかったことから、その作戦に出たのだろうと考えられます。
さて、この熊ヶ峠城の山に、私は高校生の時に登りました。矢上の荻原から日和の今原に抜ける山道がありますので、それを利用し、峠から更に道なき道をひたすら登る、というものです。
さすがに標高700メートルを越える山だけあり、山頂からの眺めは絶景です。
上の図は、昭和57年「石見町の遺跡」に掲載されている熊ヶ峠城の要図なのですが、これには不明点がいくつかあります。というのも、本丸跡と言われる山頂付近(地図)は、さほど明確な削平地を確認することができなかったからです
。おまけに城の東側にある細かい郭跡は一体なんなのか……。
その謎は、平成4年に石見町教育委員会より発行された「町内遺跡詳細分布調査報告書」で分かりました。この調査書に掲載されている「熊ヶ峠城2」の縄張り図が以下です。
これは上日南原の奥にある尾根沿い(地図)に築かれた城跡の調査図なのですが、調査ではこれを戦国期のものとして、山頂付近の城を南北朝期のものとして分けています。
つまり、同じ山にありながらも、別々の城と見たほうがよさそうなのです。なるほど、山頂の郭は戦国期には既に使用されておらず、だから遺構も明確ではないのかもしれません。
ともあれ、平成に入ってからの調査を元とした寺井氏の原図が「石見町の遺跡」の要図の東側の郭群を正確に表していると理解した方がよさそうです。「焼米炭」も、毛利軍に焼き討ちにあった時のものだとすれば、話も場所も合いますからね。
また「姫横手(姫屋敷)」という地名が残る曲輪跡も存在します。姫様がこんな山奥に住んだのでしょうかね?
右の写真は、戦国期に使われた城郭がある尾根部分です。
日原城(邑南町矢上)
石見町誌下巻の「慶福寺」の項に「矢上字北河内山林に日原城の跡がある。道城金蔵寺があったと伝えられている。今も林内に矢竹が密生し頂上は平坦であって碑石が多くあるが、その中で高さ五尺五寸幅一尺一寸五分の五輪の塔があり、かすかに夢想院法橋の文字を認められる。この城は日原法橋の籠ったものと伝えられている。慶福寺はその菩提寺であったよし、禅宗の寺であって永禄初年のものであった」とあります。
で、矢上字北河内山林とはどこなのか。
手っ取り早く、慶福寺の住職に聞いてみたところ、何と慶福寺の裏山がそれだそうです。(地図)
現在の住職(平成19年現在)が、日原法橋から数えて15代目にあたるそうで、間違いなく城跡とのことです。跡地はかなり広く、当時の敷石や井戸の跡もあるそうで、貴重な史跡でありましょう。ですが、現在は寺の所有地ではなく、入ることもできないとのこと。
日原法橋については、言い伝えによると、元々武士であったが、人をあやめる事はできないと志をたてて医者となり、その後出家したようです。石見町誌にある「五輪の塔」は、その法橋の墓とのことです。
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