邑南町の観光名所、歴史の紹介
ここでは、島根県邑南町内にある歴史スポットや観光名所などを紹介しています。
郡山城の真実
邑南町矢上にある郡山城は古くから三宅氏の居城として、このサイトでも詳しく紹介しておりました。
その場所について、広い削平地と土塁を持ち五輪塔も存在する城跡を掲載しておりましたが、どうもそれは違うようです。旧石見町教育委員会が発行した冊子の中でもその場所が掲載されており、かの笠森惣一氏もそこだと信じて疑わなかった場所なのですが、どうも不自然な地形もあるなと感じてはいました。
偽・郡山城 (地図)
吉川正氏によると、この城跡と思われていた削平地は、江戸時代の鉄穴流しの跡と思われるそうです。
「矢上禿」と言われるほど、タタラ製鉄によって山という山は削られ、農耕地すら荒らした所業は「ここは城跡ではないか」と思ってしまうほどの削平地を生み出し、後述しますが戦国の城跡すら破壊してしまったのです。
では、本当の郡山城はどこに位置するのかと言いますと、場所はこちら。
真・郡山城 (地図)
この地は『石見町誌』の写真では郡山城と紹介されている場所でして、上の写真の左に移っている四角い石は「郡石」と言われる由緒ある石なのです。
ただ、この山も鉄穴流しによって相当の破壊を受けており、郡山城としての遺構がわずかに残っているので、ここに紹介致します。
郡山城 主郭
かなりきれいに削平されています。
主郭の西側で一段高く郭を設けています。
狭義でのここが主郭でしょう。
主郭の南側は急斜面になっています。
これは鉄穴流しによって削られた跡であり切岸ではありません。
ですので、主郭はもっと広かった筈。
主郭の北側に2本の竪堀が残っています。
写真はその東側の1本。
その竪堀を下から見てみます。
主郭北側の斜面は鉄穴流しの破壊を受けていないようです。
主郭北側にある竪堀の2本目。
主郭南側下に広がる平地。
土塁を持つ削平地に見えますが、これは鉄穴流しの跡。
主郭北側にも平地が存在しますが、これも鉄穴流しの跡。
なぜかと言うと……
虎口っぽい場所には石積みが施され水路が存在します。
これが間違いなく鉄穴流しの跡なのです。
結局、本当の郡山城も鉄穴流しによって相当の破壊を受けているには違いないのですが、かろうじて主郭削平地と竪堀2本を残していることにより、ここが城跡であったことを物語っています。
ちなみに、この山の南、現在の一畑薬師の場所から少し下がった所に「陣ケ迫」という字名が残っています。これは永禄5年(1562)、毛利元就が福屋氏攻めの為ここ郡山城で越冬した時に、小早川隆景の軍が陣営した場所ではないかと思われるそうです。
陣ケ迫方面
さらに付け加えますが、前述の「郡石」とは「郡山の神石」とも呼ばれ、『邑智郡誌』での説明を引用すると、
……遠き神代の昔大国主命の御子美保須々美命この地におわしまして、地方の開発指導につとめ給うことあつく、ここに邑智文化の基礎を定め給う。地方の民草その威徳をたたえて「邑智須々美命」と申し奉ったということである。現にその郡山に残る「郡石」と称える霊石は命の御座所であると伝え、村人の畏敬する所であって、昔はここに邑智須々美命、邑智姫の二神を祀り、里人の尊信厚かったが、時代とともに衰微し、明治42年(1909)諏訪神社に合祀せられたのである。また同所の前面県道に架ける橋を「須々美橋」というのも、命の御名に因めるものである……
他の伝説によると、邑智須々美命が、杞姫と常に腰をかけ四方の話に打興じ笑いさざめき給いし大岩、なのだそうです。
郡石(地図)
さて『石見町誌』では「郡石」説明の後、七世紀以降邑智の郡司が置かれたのは、ここ郡山ではないかと推測しています。
その理由として、(1)「郡」を持つ地名は郡内で「郡山」しかない。(2)地理的にも矢上や田所・出羽の広い平坦地は最適地。(3)裏付ける一級資料は無いものの、考古学的見地に立ってみても他地域には劣らない(←ちょっと乱暴な解釈)を挙げています。その推測の中で、郡石の須々美命の伝承も、任用された郡司が当地域の人々の尊敬を集めた人物を表しているとすれば、それなりに受け入れられるもの、としています。
(2014年12月)
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