島根県邑南町の寺伝
このページでは、島根県邑南町内の寺に残る、興味深い伝承を取り上げます。
安楽寺(邑南町矢上)
浄土真宗本願寺派 王蓮山 安楽寺
この寺の開基について、瑞穂町誌の「文禄の役」に記載があり、豊臣秀吉の朝鮮出兵に関係しています。
ここでは「石見町誌」から引用して紹介致します。
高原村大字和田字谷川(現在の瑞穂地区和田)の浄土宗安楽寺住職慶誓は、近郷を常に托鉢を行っていた。
文禄元年(1592)の或る日、近郷の上亀谷大草の庄を托鉢中、同地大地主新屋事須佐惟秋方に至しとき、屋内に悲鳴あるを聞き家人にその故を尋ねたところ、当家には古来家に伝わってきた甲冑を所持しているため、今回豊富朝鮮征伐に付甲冑所持の者はこれに従軍すべきことを命ぜられ、出征のやむなき状態になったのでこれを憂いているのだと告げたので、慶誓はいたく同情し、それでは自分が身代わりとして従軍しようといったので家人は非常に喜んで感謝し、慶誓は直ちに須佐惟秋となって出征し小早川隆景の指揮下に入る。
而して文禄3年任務を終え、無事須佐家に帰ると、須佐家では大いに喜び、この謝礼にもと矢上村へ安楽寺を建立し、同時に浄土宗を浄土真宗に改めた。慶長10年(1605)8月11日創建、木仏名称を本山から許可せらる。爾来須佐家を安楽寺門徒とし同時に須佐の姓を洲浜と改姓し、慶長10年当主孫兵衞は阿弥陀如来木仏本尊一体を寄進している。それより洲浜家の分家一族は門徒となり今日に至っている。(以上、「石見町誌下巻」より)
ちなみに瑞穂町誌では、僧侶の名前は「角庸」となっており、身代わりとなった人物は「洲浜孫兵衞惟景」となっています。屋号は「新屋家」でしょうね。
秀吉の朝鮮出兵において、この地域でも兵役が課せられ、出征した人たちがいることが分かる話です。
瑞穂町誌では、毛利家家臣となった小笠原氏、周布氏、益田氏、吉見氏の出征事例が紹介されているように、出羽氏も記録がないにせよ出征したものと思われます。
安楽寺
天蔵寺(邑南町井原)
浄土真宗本願寺派 雲井山 天蔵寺
背後に雲井城山を構え、城主久永越中守の菩提寺であったと伝わる。今でも住職は「久永」姓である。
元々は仏心宗京都東福寺の末派だったといい、現存する釈迦三尊像はその時代のもの。
大永3年(1523)恵祐和尚の時に浄土真宗に帰依し、改宗して顕堂と称した。その後、天文13年(1544)雲井城落城の際、住職顕道は出雲国江南の常楽寺に転じ、その後無住となる。
永禄年間に、安芸吉川氏の家臣・田村与左衛門が当寺に来て、俗人ながらも本尊を守護した。その長男が僧侶となり、恵浄と称して第二世の住職となる。
仏心宗時代の本尊は、高さ八尺、蓮台共に一丈の釈迦牟尼仏で、両脇士に普賢菩薩と文殊菩薩の二菩薩。弘法大師の作とも、恵心僧都の作とも伝えられる。宝暦4年(1754)に第九世義海が本堂を再建し、宝暦7年には別に釈迦堂を建てて旧本尊の像を安置した。浄土真宗では釈迦仏を本尊としない為である。
大正11年に釈迦堂を再建し、法要中の5月14日の夜中に庫裡より出火して本堂庫裡など烏有に帰す。これは相当のショックだったことだろう。その後、大正13年に本堂再建の議が成立し、大正15年3月竣工。昭和2年4月に入仏会を執行した。
(関連) >> 「久永の庄」と天蔵寺原遺跡
天蔵寺
長円寺(邑南町中野)
浄土真宗本願寺派 今原山 長円寺
元は禅宗で、日和村の今原にあり、清龍山柳池院と号し、日和城主小笠原家臣等の菩提寺であった。今原は廃村で現在は山林となっているが、跡地には石碑が立っている。
応永年間に日和城主・寺本玄蕃亮源国長次男伊豆守氏長がこの院に入って僧侶となり円流と号した。円流は浄土真宗に帰依し、赤名西蔵寺に依って改宗して長福寺の長と円流の円をとって長円寺と改称した。
延徳年間には矢上村田津の木に移り、元亀年間には石山合戦に参加して巧があり、天正4年に賞として本山の直隷に。慶長9年3月木仏寺号を許可され、中野村字古寺に移り、寛文年間に現地に移転した。
住職は寺本姓である。
言い伝えでは、日和の今原に移るまで日和村奥谷の後ろの字寺床という土地にあったという。その付近には、寺が後、論伝などの地名が残っている。
(関連) >> 「今原」と長円寺跡
長円寺
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