邑南町の観光名所、歴史の紹介
ここでは、島根県邑南町内にある歴史スポットや観光名所などを紹介しています。
直会峠……尼子軍撤退の「尼子道」
直会峠(すくえとうげ)とは、島根県邑南町上田長田向と広島県安芸高田市高宮町川根の直会との間にある峠で、かつての浜田三次往還の峠です。
現在の直会峠
直会峠の道標
現在も江戸時代の「従是南安芸国」道標が立っています。
天文9年(1540)、尼子詮久(後の晴久)は3万の軍勢を率いて吉田郡山城の毛利元就を攻めます。
はじめの偵察隊は6月、出雲赤名から王貫峠を越えて三次へ入る備後路を取りますが、反撃に会い撤退。
8月、詮久本隊は赤名から都賀、口羽、川根を経由する石見路を取り、吉田郡山城へ向かいました。
羽須美村誌によると、尼子軍から逃げ遅れた将兵が隠れたということから、都賀上野の奥山にある集落が上隠、下隠という名になったということ、また宇都井の今井城に落城の伝説があり、それが毛利与党による抵抗戦によるものではないかと推測しています。
さて、吉田では両軍による激戦が繰り広げられますが、尼子軍は決定打に欠き、11月には陶隆房(陶晴賢)ら率いる大内軍が参戦したことで劣勢になります。
年が明けて天文10年1月13日、毛利軍と大内軍は尼子軍に攻撃をかけ大混乱に陥ります。
その夜、尼子詮久は退却を決定し、すぐさま撤退戦が始まります。多くの将兵を失い、しかも雪の時期を迎えた撤兵は熾烈を極めることになります。
「郡山籠城日記」には、
犬伏山の雪に漕ぎくたびれ、石州江の川にて、或は渡りへ追いだされ、死に候ものさらにその数を知らず候う。
……
敗戦の姿は哀れである。尼子軍の去ったあとには、桶の中に納めた下野守久幸の首も置かれていた。
……
そう記されています。出雲に持って帰ろうとした尼子久幸の首すら置いていかねばならない事態だったのです。
ちなみに、尼子久幸とは尼子経久の弟で、つまり詮久の大叔父。毛利攻めの評定の際、久幸は慎重論を唱えますが、詮久に「臆病野州」と蔑まされたと伝えられます。(野州とは下野国の別称)
そして天文10年1月13日戦いの最中、久幸は「臆病野州の最期を見よ」と奮戦しますが討死しました。
「犬伏山の雪に漕ぎくたびれ」とあるように、犬伏山山麓の酷い積雪に悩まされ、道の不案内もあったことでしょう、軍は分散したようで、「尼子道」の伝承が各地に残ることになります。
特に知られるのは川根から直会峠を越えて長田に入る道です。川根側では県道甲田作木線の向かい、直会大歳神社側の山沿いに尼子道なる旧道が遺っています。
広島側。
以前ここに案内板があったんですけどね。
「尼子道」と呼ばれる旧道。
1964年の航空写真(国土地理院より)
現在の直会峠は明治以降の車道であり、旧道の峠は西側の谷にありました。道標も元はそちらにあったものを、現在の場所に移動したもののようです。
羽須美村誌によると「尼子道」は他に生田から粟屋峠を越えて久喜、大林から徳前峠を越えて阿須那、今井、金井谷から比敷への道も記載されています。それもまた、現代でさえ積雪時は難儀する道ですから、撤退の尼子軍を相当苦しめたことでしょう。
尼子軍の、江の川渡河ポイントは都賀であり、敗走兵をまとめるために陣所を築きました。それが美郷町の「尼子陣所」です。伝承によると陣所に滞在すること三ヶ月に及んだそうですが、たどり着いた軍勢は多くなかったとのこと。
尼子氏はこの敗戦を機に衰退していくことになります。
(撮影:2021年4月)
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