邑南町の観光名所、歴史の紹介
ここでは、島根県邑南町内にある歴史スポットや観光名所などを紹介しています。
お蓮・勘兵衛悲恋の墓(三坂峠)
邑南町市木地区から北広島町に向けて三坂峠を越える道は、古来、石州街道と呼ばれ参勤交代にも使用される重要な街道でした。現在でも、江戸時代に作られた石畳も遺り、当時を偲ばせます。
その三坂峠に、悲しい物語を持つ墓がひっそりと建てられています。(地図)
三坂峠の市木側に立つ、お蓮 勘兵衛の墓
これは『お蓮・勘兵衛の墓』と呼ばれる、男女二人の墓なのです。
そこには、どんなドラマがあったのでしょう。紹介しますと……
江戸時代の安政4年(1857年)、浜田城下下牛市町に住む秤屋勘兵衛は早くに妻を亡くし、独り身で生活していましたが、出入りをする浜田藩士の妻・お蓮と恋仲となり、そのうち世間に知れることになります。
恋の炎に燃える二人は、ついに駆け落ちを決断し、石州街道を走り三坂峠を越え、安芸国に逃げ延びます。
別の藩領に入れば追っ手は来ないだろうと安心していたところ、追いかけてきたお蓮の夫に、大塚(旧大朝町)で捕らえられてしまいます。
しかし、浜田藩士にとって他国領で手打ちにする訳にもいきません。夫は「浜田に戻れば離縁して、晴れて勘兵衛と夫婦にしてやる」と騙し、三坂峠まで戻り、浜田藩領に入ってすぐに二人の首を刎ねて殺してしまいます。
この事態を夫は市木代官所に届け、首は油紙、風呂敷に包んで浜田に持ち帰りました。
三坂峠には首の無い二人の死体が遺され、市木の庄屋は哀れにおもい、村人に命じて遺体を埋葬し墓を建てたということです。
つまり不倫なんですが、江戸時代にしてみれば、殺されるほどの重罪だったのでしょう。命をかけた恋だったのですが、その結末は恐ろしく悲劇的でした。
さて、この物語を題材にした演歌「お蓮勘兵衛悲恋坂」が平成26年(2014)3月に完成し、舞踏家で歌手の西井えみこさんによって歌われたというニュースを見ましたが、その演歌について詳しいことは分かりません。
ともあれ曲になるほどの悲恋劇、二人の墓参りでもしようかと思っても、市木からこの三坂峠に到達するまでが大変です。県道とはいえ、曲がりくねった道を峠まで車で走らせるのも難儀な道ですから、当時は相当の難所だったと思われます。
今でも花が供えられています
案内表示
このお蓮・勘兵衛の話について、『広報おおなん 2013年3月号』でまとめられていました。
記事によると、この話を詳しく紹介しているのは昭和22年の『桜井地方史(浜田の郷土史家・大島幾太郎:著)』を根拠に書かれた瑞穂町誌「お蓮勘兵衛の墓由来」です。
同じく浜田の郷土史家・藤井宗雄『石見年表』『濱田鑑』(明治38年)には「享保年中(1801~1803)那賀郡黒川村牛市の河内屋勘兵衛門の妻オレン、勘兵衛と不義ありて逃げ去る。勘兵衛門追い行きて邑智郡市木の三坂峠にて二人を害す」と簡略に述べられています。
更に、浜田藩の刑罰を記した『御仕置帳』には「享保12年(1727)2月21日、牛市町河内屋源三郎の妻が密通により出奔したので、市木の三坂峠で騙し討ちとなる」の記載があるそうです。
これは藩の公文書なので信憑性がありますが、前述のものとは年代や名前など食い違いがあります。
おそらく『御仕置帳』が正しく、他は地元市木での言い伝えも交わりつつ仕上がった伝承なのでしょうが、不倫で駆け落ちする二人が三坂峠にて殺されたことには違いありません。
広報では更に、安政4年は武士の敵討ちが廃止になる直前であって、その時期を設定することでより身近な事件としてリアリティのある悲恋物語に仕上げたのではないか、と考察しています。
また、この話に関連した伝承が別の場所でも残っています。
浜田市(旧旭町)和田地区の言い伝えによると……
今から150年位前の江戸時代末期、八色神社の下に「宮の下」という宿があった。
その日朝早く旅立つ二人連れがいた。一刻も早く三坂峠を越えたい。その表情から何か訳のある二人連れと思った宿の主人は、仔細は何も聞かず「気をつけて行きんさい」と見送った。
それから半時(1時間)たって浜田から1人の同心が息を切らして宿の主人の前に現れ「二人連れは見なかったか?」と問うた。主人は正直に答えて去って行く同心を見送りながら「あの二人、早く芸州(広島県)に入ってくれれば良いが...」と思うのでした。「いかに同心であれど三坂峠を越えれば芸州、二人に手出しなどできないはず」と案じ二人の無事を祈ったのだが... ようよう三坂の峠を越えた二人は芸州大塚の町に入るところで同心に追いつかれた。
二人は恋仲であった。「そんなに好いとるんなら夫婦にしてやるけえ、一緒に浜田に帰ろう。わしゃそう思って追ってきたんじゃ」の言葉に騙され手前の石州(島根県)に入った所で二人の首は落とされた。
その二人の首を荒縄で縛り竹竿にくくり付け宿の主人の所に寄った同心は「この下郎が妻と駆け落ちしやがってな。おかげで仇を取る事ができた」と礼を言う。まなこをひんむき、恨めしそうなその妻「お蓮」の目に宿の主人は腰を抜かさんばかりになった。
宿の主人に対する義理を果たした今、重い二つの首(10キロ以上)は足を重くするばかり。これからの上り坂が思いやられる同心は和田の町をはずれ「すべり坂」を下る。(今の和田大橋の下)
案の定すべり坂で白角川の縁まで首を転がしてしまった。「やれやれ、もぉ用は済んだし...」思案に暮れて見廻すと左側のえきに「タブの木」が見える。その下は藪になっている。
結局、二人の首はその中に投げ捨てられた。それから暫くしてその場所に「首塚」の碑が建てられたが今はその場所さえ定かでない。(一説に大石谷、岡崎さんの家の和田寄りの道路の下あたりと云う)
(和田公民館発行広報誌「やつおもて」より引用:和田地区まちづくり推進委員会)
市木代官所で手続きを済ませた後なので、首は用無しということなのでしょうか。なんとも悲しい話です。
幕政の お蓮勘兵衛の 悲恋坂
(市木カルタ)
追記しますが、この三坂峠には道標が遺されていることで有名です。
トンネル(スノーゲート)の中央にあるので見つけにくいのですが、明らかに「是従り東は安芸の国」と記されています。
トンネルの中にある道標
「従是東 安藝国」
浜田から逃げてきたお蓮・勘兵衛も、この道標を越えたことで安心し、悲しき恋を燃え上がらせたのでしょうか。
(撮影:2015年3月)
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