邑南町の観光名所、歴史の紹介
ここでは、島根県邑南町内にある歴史スポットや観光名所などを紹介しています。
石州街道 石畳
邑南町市木地区は、かつて浜田と広島を結んでいた「石州街道」が通った交通の要所であり、浜田藩主の参勤交代にも利用されました。小武家城集落の奥には、今でもその街道の石畳が残っています。
このページでご案内しましょう。
瑞穂インター前交差点を田所方面に走り、小武家集会所を過ぎたあたりに分かれ道があります。
広島方面へ入りましょう。
しばらく車をはしらせると、案内表示が現れます。(地図)
ここが石州街道との交差点。
この地点まで車で来れます。
案内表示
「石州街道は、浜田と広島の城下町を結ぶ総延長125キロメートルの江戸時代の街道で、この付近には当時の石畳が良好に残っている。」
表示から入っていけば、既にそこは石州街道
石畳っぽい箇所もありますが、更に奥に入っていきましょう。
橋を渡った奥に、見事な石畳が現れます。
(Googlemapビュー)
やや上り坂になっていて、滑りやすいので注意です。
さらに登れば、街道は薮状態になります。
しかし、街道そのものはこの先、三坂峠を越えて続いているのです。
この写真を撮影している脇の薮から、真っ黒な影がガサガサと現れて、てっきり熊かと思って身構えましたが、地元の林業を営んでおられるおじいさんでした。驚かすなあー。
ちょっと話をしたのですが、おじいさん曰く「昔はここを殿さんたちが『したに~、したに~』と通ってなあ、農民は土下座をしてなあ、頭を下げなかったらケツを斬られたもんだ」
えーと、お尻を斬られたのでしょうか、それはたまったものではありませんね。
「街道が残っているのはここだけですか?」
「いや、三坂峠に向かって、ずっと残っているよ。石畳も、ところどころにあるのだけれども、ここが一番来やすいんだろうね。あんた、どっから来んさった?」
ってな感じでした。
近くに県道が走っているとは言え、かなり山奥になり、管理しないと薮状態になる場所です。地元の方が草刈りをしておられるそうで、本当に感謝感激ですね。
昭和22年の三坂峠
三坂峠は昔から「可部じゃかべ坂、市木じゃ三坂、越木赤谷なけりゃよい」と駕籠かき唄で歌われるほどの難所でした。
街道そのものの歴史は古いのですが、石畳はいつごろ設置されたのでしょうか。平成4年(1992)に農道設置の為に発掘調査が行われ、その報告書の中では、天明4年(1784)の市木代官所の街道に関する通達を見ても石畳設置はされていない模様であると述べられています。
同じ浜田藩内の山陰道才ケ峠石畳 (浜田市長沢町~下府町)は、文化年間 (1804~1817)に造られたものといわれ、また、那賀郡金城町の笠松峠の石畳は文化8年 (1811)地元の人々により造られたことが分かっています。そのことから市木の石畳は、18世紀後半から19世紀前半にかけて逐次整備されたと推定されるそうです。
伝承では、峠道は雨のたびに流されてしまい、浜田藩主が通行するたびに修理をしなければならなかったので、小武家集落の人々が石を敷いて流出を防いだということです。
その後峠道は県道として明治22年に馬車道が開通し、往来もにぎやかになって峠にも茶店や旅館が五軒立ち並んだそうです。
さあ、瑞穂インターを利用の際、少し足を伸ばして、江戸時代の空気に浸ってみませんか?
平成4年(1992) 発掘調査の時の写真
(「石州街道発掘調査報告書」より引用)
1992年 発掘調査の時の写真
両脇には、縁石と排水の溝が存在します。
(2010年3月)
2022年追記
昔の航空写真を元に、もう少し周辺を散策してみましょう。
1964年(昭和39年)航空写真
現在の状況
舗装道路脇から入る細道があります。これが石見街道でした
航空写真(1)の部分。(Googlemapビュー)
棚田の石垣がしっかり残っています。
さらに、上に登る砂利道が石見街道でした。
航空写真(2)の部分。ここも棚田の跡ですね。
(Googlemapビュー)
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