戦国の石見を探る……邑南町の城跡や史跡を紹介

島根県邑南町(旧 石見町、瑞穂町、羽須美村)の城跡や史跡・遺跡を紹介しています。

 このページでは、日貫・日和地区の城跡について紹介しています。

東屋城(邑南町日貫 町中央)

東屋城(邑南町日貫) 南北朝時代に、日貫の地を納めた荘官:領家玉光の居城が、この東屋城(地図)です。
 元弘3年(1333)、流刑で隠岐の島にいた後醍醐天皇を、名和長年が船上山に迎えた時、福屋氏や三隅氏らと共に領家玉光は応援に駆けつけたと言われます。その後、石見国の南朝方として戦いますが、暦応4年(1341)の雲月作戦で敗退し、その年の10月に討死、東屋城は落城しました。
 その後、重富氏時代は藤井某が日貫を担当し、重富氏が福屋氏によって滅ぼされると、岡本兼祐と横道帯刀の両氏の親族を東屋城の城主と家老にしたといいます。
 毛利元就によって福屋氏討伐がなされると、後述する森田対馬守が治めたとも伝えられます。

 現在、東屋城がある標高300メートルほどの山は「城山」と言われ、山の西側に登山口と「東屋城趾入口」の石碑があります(写真右下) 。ただし、登山道は間違いやすいので注意してください。
 山頂には削平地と帯郭の跡があり、城の北側と南東側にもいくつか郭の跡が確認でき、虎口と石積み遺構が確認できます。削平がしっかりしており、福屋氏・重富氏による日貫支配時代も使われたことを物語っています。

東屋城 登山道入口『邑智郡誌』によると、領家玉光の館は「日貫の町の東方二町横台堂字殿敷にあったといわれ、いまなお「殿敷」「御台面」の地名がある」とあり、殿敷はこのあたりです。
 この領家氏については、美濃郡大部・那賀郡高城村にも在住したとの記録がありますが、これは日貫の領家氏が福屋氏に附属するようになってからその一族が移ったものではないかと『石見町誌』では考察されています。
 ところが、この件について『』には『石見家系録』を元に突っ込んだ内容があり、玉光の子供は兄・対馬守と弟・加賀守恒利がいたといい、対馬守は美濃郡二条の要害山、豊田、安富などの城主となり、加賀守は那賀郡高城の三星城と中西の大嶽城の城主だった、とあります。加賀守恒利は足利直冬と深い関係を持ち、正平13年に兄対馬守と闘って勝ち、二本松城主内田三郎を滅ぼして周辺を併合した、とありますが、どこまで信頼できるか分かりません。
 また、桜井郷にも領家氏が存在しますが、これは日貫の領家とは別のようです。

 → 東屋城写真集


東屋城主郭

 さて、ここからは地元の方に聞いた伝承です。
 雲月作戦で敗退した領家玉光は、武家方の武田氏と日貫の地で合戦し討死しました(日貫合戦)。場所は現在の日貫の町あたりで、季節は秋。田んぼの稲が合戦によりすべてやられてしまった、という言い伝えがあるそうです。また、玉光を含め戦死者の墓が石見林業の東隣にあったという伝承がありますが、推定地を掘り起こしても何も出なかったそうです。
 一方、雲月作戦で破れて日貫まで帰ることができずに討死したという説もあります。
 更に、領家玉光は生き延びて出家した、とも、伝承が乏しく存在しない人物ではないか、とも言われます。

 東屋城は、どちらかというと西方向への防御を固めています。西から来る人を城で監視し、不審者は直ちに捕らえたことから、「泊」の集落名が残ったそうです。
 また、 殿敷の東に「堂ヶ内」という地名があり、そこには領家氏の軍師である森岡氏の館があったと伝えられています。

東屋城要図
※「石見町の遺跡」より引用

丸山城(邑南町日貫 鉄穴原)

丸山城(邑南町日貫) 雲月作戦で東屋城が落城した後、日貫の地を納めたのは福屋氏の家老:重富氏でした。その時、領家氏の後裔を立ててこの丸山城(地図)を治めさせたといわれます。

 この城に関して、一つの説話が残っています。『石見町誌』には「丸屋城の話」という題名で記載されていますが、そのまま引用してみますと、「城主が東の都のことが恋しくなって、玉の簾を巻き上げてみると、西も東も大山ばかりであったという。吉原すだれの地名の起こりであると伝えられている。田屋の祖先の人がこの山を開墾した時、朱甕(かめ)が出てきたが、あやまって壊してしまった。その中の朱がみな流れ出てしまったが、七日間も下流の川の水は朱で赤く染まったということである。(石見町誌下巻)」とあります。
 たしかに、この城跡の四方は山ばかり。実に寂しい土地です。「吉原」「簾」も、現在地区名として残っています。これが領家氏のことだとは断定できませんが、応仁の乱以降に都落ちして日貫に住み着いた人があったという伝承があるようです。

日和城(邑南町日和 大釜谷)

日和城(邑南町日和) 邑南町日和は、今でこそ山間の寒村というイメージがありますが、平安末期より土屋氏の一族である大場氏が郡司として在住したと言われるほど古い歴史があり、この日和城(地図)も度々激戦の舞台となりました。
 日和城は、別名金刀比羅山城・琴平城・打綿城とも言われ、鎌倉時代中期に江川流域に勢力をもった土屋氏によって築かれた城のようです。ただ、城跡に金刀比羅宮が作られたのは江戸時代のことなので、金刀比羅山城・琴平城の別名は後世つけられたものと思われます。

 応永21年(1414)に土屋氏の内紛が起こり、山名氏明が幕府の命を受けて土屋氏討伐を行いました。その時から日和は小笠原氏の勢力範囲となり、小笠原氏家老の寺本考国が、八色石の銭宝城より日和城に入りました。
 その後、日貫・矢上・中野を勢力範囲とした福屋氏と小笠原氏が争うようになり、天文22年(1553)には日和合戦が起きました。おそらくこれは、日和城と熊ヶ峠城との間で起こったものと思われます。
  弘治三年(1557)5月、井原の雲井城攻略に成功した吉川元春は、そのまま中野から日和侵攻を試みました。この時、日和城を守っていた寺本伊賀守は果敢に戦い、吉川軍の日和侵攻を食い止めました。


日和城本丸

  しかし、永禄元年(1558)2月、再び吉川軍の杉原盛重により攻撃を受けます。このときの戦闘の様子が『石見誌』にありますが(後述)、寺本伊賀守国長は降伏し、日和城は吉川軍支配下となりました。これより前に吉川軍は、小笠原氏の本拠地・川本温湯城を攻めようとしましたが、毛利元就より「日和の寺本はすぐれた戦闘力を持っており、これを川本より先に叩いておかなければ、出羽(旧:瑞穂町)からの補給路が絶たれる恐れがある」旨、助言があったと言われます。
  日和陥落に対し小笠原長雄は、これを奪回すべく小笠原長智と市川三郎丞を送りますが、逆に元春に下った寺本に阻まれて敗退。同年5月、小笠原氏の本拠地・川本温湯城は毛利軍に包囲され、8月下旬には小笠原長雄は降伏しました。
 日和は、そのまま寺本氏が毛利の家臣として治めるところとなり、日和城は関ヶ原合戦で毛利氏が防長移封になるまで機能していたと思われます。

 日和城は標高496メートルの山頂にあり、現在、南北に40メートル、東西に10メートルの広さがある本丸跡に社が建っています。
寺本氏寄贈の甲冑 平成7年、金比羅宮の改築にあわせて、大釜谷から山頂への車道を工事する際、山頂部分の城跡の発掘調査が行われています。その調査結果については、石見町教育委員会発行の「日和城跡調査報告書」にまとめられています。
 この発掘調査により、本丸には数多くのピット群が見つかり、2つの部屋を持つ堀立柱建物があったと分かりました。瓦の出土がなかったので、柿葺か草葺屋根と思われます。
 他、土塁、簡易的な石垣、陶磁器片、さらに甲冑の札と思われる鉄片も出土しています。この鉄片は矢上公民館に展示されていましたが、邑南町郷土館に移されたようです。
 また、北東方向に二の丸?の郭がありますが薮に包まれています。
 更に、西方向の尾根にも多数の郭が確認されますが、主郭の下の連続竪堀で遮断されており、古い時代の郭群と見られます。

 ちなみに邑南町郷土館には、日和の寺本氏から寄贈された甲冑が展示されています(右の写真は矢上公民館に設置されていた時のもの)。おそらく日和城で戦った寺本氏が使用したものと思われます。

 この日和城主小笠原家臣等の菩提寺が長円寺です。現在、中野にある浄土真宗の寺ですが、もともと日和にあった禅宗の寺だったそうです。寺本玄蕃亮源国長次男伊豆守氏長がこの寺に入って僧となり、円流と号しました。今でも長円寺の住職は「寺本」の姓を持ちます。

 上の遠景写真は、上郷より見た日和城(中央の山の左山頂)。手前は如伝寺です。如伝寺も日和城と縁があり、寛文5年(1665)3月15日、寺本伊賀守の子孫・寺本伝蔵の妻シゲの建立によるものと伝えられます。最初は女伝寺と言っていましたが、後に如伝寺と改称されました。
 それにしても日和には「寺本姓」が多いですね。どこかの家が、寺本伊賀守直系の本家なのでしょうけど……。

 日和城本丸までは、軽自動車が通れるほどの登山道が通じています。(登山道入口はここ)毎年7月には金比羅の祭りがあり、それに合わせて草刈りがなされるので、それ以降が登山には適しています。ただ、水害で山頂付近の道路が崩れたままになっているので、車では途中までしか登れません。それとクマに注意でしょうか?

 なお、日和城の南東の山に、吉川軍陣所跡(地図)があり、別名「大谷山城」と言われ『石見の城館跡』で城郭図が紹介されています。言い伝えでは、毛利軍の兵士一人につき3本の旗を持たせて振らせたそうで、日和城に対して大軍であることをアピールしたのでしょう。

 →日和城写真集(2007年)
 →日和城写真集(2010年)

日和城要図
「日和城跡調査報告書」より引用

 

寺本玄蕃充との一番槍騒動

 永禄元年の、杉原盛重による日和城攻撃の時の興味深い様子が『石見誌』に記されています。
 それによると、永禄元年3月24日、杉原は手勢500騎を率いて日和城下に押し寄せ、民家に放火して城の兵を誘いました。すると城中より、寺本伊賀守の息子の玄蕃充明長が200騎を連れて討って出て、終日合戦となりました。
 夕方になって各々引き上げた後、杉原の家臣の福田右近と、壇上監物が1番槍はどちらだったかという争いを始め、やがて刺し違えそうになるほどでした。それを見た杉原は、味方に証人がいない以上、当人の玄蕃充に聞くより他はない。明日また足軽をけしかけて玄蕃充を誘い出して聞いてみたらいい、と助言します。(命のやりとりをする合戦にしては、なんとものんびりした話ですな……)
 さて翌日、杉原は日和城に足軽をけしかけると、案の定玄蕃充が討って出てきたので、「玄蕃充殿、昨日の一戦の時、福田と壇上が名乗って槍を合わせたが、どちらが1番槍だったか」と問いました。
 すると玄蕃充は笑って「戦いは乱れていたので、敵味方さえ見分けることができなかった。誰が1番か2番かなど覚えていない。臆したものだと思われるだろうが、恥ずかしいことにそうなのだ」と答えたという。
 杉原はこれを聞いて「玄蕃充ほどの武士が、1番槍を覚えていない筈がない。惜しい武士を第二に落とすことを無念に思って、そのように言ったのだろう。何と情け深い玄蕃充だ」と感心しました。
 吉川元春からは、日和城を攻め落とせと言われているが、寺本父子とは実に素晴らしい武将なので、是非とも味方に引き入れたい。杉原はそう元春に申し出て、所領安堵を約束されて寺本父子と河辺讃岐守は降伏しました。
 さすがにこれには小笠原長雄は怒り、寺本を討ち取れとばかり小笠原長智や家臣の大島、市川など千騎を日和城に向けさせました。寺本は長智の武勇はよく知っていて、城からは出ずに十分引きつけて一気に決着をつける方策を取ります。静まり返った城に小笠原軍は目前まで迫りますが、その時城中より散々に矢を射かけます。長智自身は大弓の名手で応戦するものの、深手を負い、そこに河辺讃岐守が討って出ましたので、たまらず小笠原軍は温湯城に戻った、ということです。

大谷鉱泉と小笠原長智の奉納書

 日和には「大谷鉱泉」と呼ばれる湧水が存在します。伝承では六百年の歴史を持ち、低温ながらも神経痛や外傷などに効能があり、今でも利用する人があるそうです。
 この大谷の湯には、小笠原長智の奉納書が残されています。期日は永禄元年4月だそうで、寺本氏が毛利方についた後の合戦後のことになります。書には「合戦により六七名深手を負い、退陣する際に大谷湯の噂を聞き、洗療させたところ治癒した」と長智が喜んだ内容があります。
 日和城を攻めた小笠原軍は、撤退時に数日留まり、負傷者をここで治療したのでしょう。

杭ヶ打城(邑南町日貫 川下)

杭ヶ打城 八戸川と日貫川の合流する突端の山に位置するのが杭ヶ打城(地図)です。
 伝承では 杭ヶ打彦右衛門の居城であったといわれ、福屋氏によって攻略されたそうです。その詳細は残っている訳ではありません。地元の人に聞いた言い伝えによると、杭ヶ打氏は、福屋氏の家老・重富氏の重要な家臣であったようです。重富氏は毛利元就の計略によって主君福屋氏によって亡ぼされますが、その直前、重富氏によって杭ヶ打彦右衛門が攻められ、落城したとのことです。それも毛利による計略の一つだったのでしょうか。
 杭ヶ打氏は落城の際、「今山」と姓を変えて日貫の川下地区あたりに潜んで生き延びていたそうですが、平成の世になってその家系も途絶えたそうです。これも言い伝えではありますが。
 また、杭を打っただけの小さな砦だったことから「杭ヶ打」という名前になったという伝承もあります。

 この城跡から、昭和初期に刀や槍など武具が発見されたそうです。しかし、発見されたものは残っていません。というのも、発見者の家に火災か不幸があったそうで、祟りを恐れて現地に埋め直したという言い伝えがあります。そうなると、城跡に是非訪問したいところですが、周辺は八戸ダム湖となっていて、うかつに登ることはできません。地元の人でさえ「無理だ」と言います。一度調査に登った人は、ダム湖にボートを浮かべて向かったそうです。
 日貫トンネルを抜けて浜田市(旭町)側から八戸ダムへ車を走らせてみましたが、これはとんでもない道です。草ぼうぼうで落石ゴロゴロの管理されていないオフロードで、まさに命懸け。ここで事故を起こして死んでも誰も責任をとってくれません!訪問したい方は、江津市(桜江町)川戸側から行くことをお勧めします。

土居城(邑南町日貫 福原)

日貫福原 とある戦いで戦功のあった森田対馬守が、日貫福原の地を与えられて築いた城と言われており、時期は天正年間と伝えられています。
 この森田対馬守について、福原地区にある石碑には「毛利家家臣」とあるそうです。その一方、福原の八幡神社とゆかりがあり、「元禄6年、森田対馬守が宇佐神宮より勧請、その際福原へ1社を創立」と『邑智郡誌』にあるそうです。元禄6年となると江戸時代になってしまうので「永禄」だとは思いますが。ともあれ土居城は、城跡というより、館跡と言った方がよいようです。
 この他、文献は残っていません。福原地区には「森田」姓が数件あるので、もしかしたらと思い訪問してみると、やはりみなさん、森田対馬守の子孫でした!その本家の方から聞いた話でも、森田対馬守がいつごろのどのような人物か、やはり分からないと言われました。なお、「本土居」という家号をお持ちでした。
 城跡については、昭和50年頃まではうず高い丘と古い墓が沢山あったそうですが(地図)、その後土地改良の為すべて削られてしまい、現在は何も残っていません。
福原(土居城) そこで、国土地理院所蔵の、昭和51年の航空写真を見てみると、確かに存在しています。(写真右:国土地理院国土画像閲覧システムより)
 消滅したのは、残念極まりないことです。上の写真は、その付近の現在の様子です。完全に田んぼになっています。

 さて、この土居城について、一つの民話が残されています。福原のずっと上の山の中に、「なかごおろ」という字がある。そこに森田対馬守が軍資金を埋めたらしい。それがどこか分かりませんが、白い椿の花が咲く場所にあるということだそうです。しかし、大水で流されたそうで、現在それがどこかはハッキリしません。

 同じ話が雲井城にもあって、金の埋めたところに白椿が咲くそうです。しかしそれを見たものはいない。また、矢上の千両が滝というところにも、千両埋めたところに椿の木を植えたという話も有るそうですが、これは草刈でかってしまった、とあります。どれもアテにならない軍資金話でありました。

大の田城(邑南町日貫 青笹)

 「ダイノタ」と読みます。青笹上地区の小高い山の上にある城で、福屋氏の城ですが、熊ヶ峠城の落城と共に、ここも落ちたようです(地図)。城主は「太田氏」で、青笹下地区に数件ある「大田」姓の家が末裔だと言い伝えられています。
 青笹地区は、「鳴滝」で有名ですが、とんでもない山の中にあります。なぜこんな山奥に城があったのか不思議なほどですが、畑仕事をしていた地元の人に聞くと「今原や青笹が昔は一番栄えていた」そうで。それはおそらくたたら製鉄の時代の話なのでしょう。
 城跡については「確かに平坦なところがある」とのことで、行く事ができるかと聞いたところ「5年ぐらい前に一度木を切っただけで登山道は荒れ放題だろう。だから釜がいるし、イノシシも出るから一人では無理だ」と止められました。


土床城(邑南町日貫 有安)

「ツチトコ」と読みます。日貫有安地区にある山城(地図)で詳細は不明ですが、伝承では土床庄右衛門が城主で、その弟が杭ケ打城主の彦右衛生門なんだそうです。
 なお、土床庄右衛門は井原に移り住んだといわれ、確かに井原地区には「土床」姓が1軒存在しますが、関係は不明です。
 城の守り神であった地蔵が、現在の有安集会所にあるという情報もあります。

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