戦国の石見を探る……邑南町の城跡や史跡を紹介

島根県邑南町(旧 石見町、瑞穂町、羽須美村)の城跡や史跡・遺跡を紹介しています  

邑南町の歴史めぐり

 島根県邑南町の城跡に限らず、知られざる歴史舞台、遺跡を紹介していくコーナーです。

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◆久喜・大林銀山跡……今、邑南町で最も熱い歴史スポット(久喜地区編)

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 石見銀山が世界遺産に登録されたことは、今でも信じがたいものがあるのですが、そのおかげで島根県石見地域も少しはにぎやかになったというもの。有り難いことです。

 その石見銀山の盛り上がりに便乗してか、邑南町に存在する「久喜・大林銀山」跡が、にわかに注目され、地元の皆さんによって整備され、邑南町では今最も熱い歴史スポットになっています。
 この地域の銀鉱脈の発見は鎌倉時代にさかのぼるとも言われ、戦国時代には毛利元就によって本格的に採掘が始められたようです。

久喜銀山
県道脇にある水抜き間歩とその案内板(地図

久喜銀山 水抜間歩
久喜銀山跡 水抜き間歩入口

水抜間歩 坑道

 久喜銀山にて一番目立つこの「水抜間歩」は、地元の方によって柱が立てられ、少しだけ入ることができるようになっています。案内板によると、明治33年に掘られたもので、もともとは水抜き用だったのですが、この奥450mの場所で大鉱脈が発見されて久喜銀山の最盛期を迎えた間歩なんだとか。

 しかし、落ちてくる水滴が雨のようで、傘が必要ですね。

 奥から側溝を通して勢い良く流れてくるのは「鉱泉」で、これを沸かせば立派な温泉になるとかならないとか。

久喜銀山案内板
「水抜き間歩」の案内表示

久喜・大林銀山遺跡「水抜き間歩」
 この間歩は、明治33年(1900)この上方の大横谷間歩・肥前山間歩・原間歩などの出水が多くなり採掘が困難となったため、経営者堀藤十郎により水抜きのために掘られた坑道である。この時大鉱脈が発見され久喜銀山の最盛期を迎えることとなった。明治35年頃には坑夫や鉱員・その家族など住人は二千人を越えていたといわれる。
(中略)
 しかし、明治40年には坑道上がり口が水没して銀の産出量が激減し、明治41年には赤字経営となり、やむなく全鉱員を東出雲宝満山鉱山に移動し久喜銀山は閉山となった。
 昭和26年には中国鉱業(株)が鉱山の再開発を試みるが、おりからの銅価格の暴落により採掘を断念し現在にいたっている。
 現在この付近には、多くの間歩(坑道)群や大規模な製錬所跡・山腹のレンガ積みの煙道・定量の鉱滓を捨てた「からみ原」など、あるいは山神社・神宮寺や多数の寺院跡など、中世からの繁栄を偲ばせる多くの遺構が残されている。

久喜精練所跡の説明板
精練所跡の説明板

乾燥窯
乾燥窯の説明板
採掘・選鉱した鉱石を1日かけて乾燥させていました。

精錬所跡
精錬所跡地にある焙焼炉(ストール)跡の数々
GoogleMapビュー ←360度パノラマ写真で見れます)
乾燥させた鉱石を一ヶ月かけて焼鉱します。

溶鉱炉
溶鉱炉の跡(GoogleMapビュー
焙焼炉から移した鉱石から、鉛や銀を抽出します。
 写真奥が煙道

炉底滓
炉底滓が転がっています

カラミ原
カラミ原(GoogleMapビュー
精錬時に出た鉱滓の捨て場


銀山道
人馬車が絶えず行き交った道です

 この製錬所は明治時代のもので、明治36年の記録によると乾燥窯2基、焼鉱窯20基、精錬鈩2基が据えられていました。さらに大型の水車や発電所、砕鉱場や選鉱場などもあり、更にこの地下には江戸時代の遺構が眠っているそうです。
 経営は「山陰の鉱山王」と呼ばれた津和野の堀家。最盛期(明治36〜40年)には鉱員が二千人を超えました。

 写真で説明を加えましたが、採掘して選鉱した鉱石は、ま3〜4トンを乾燥窯に入れて1日かけて乾燥させました。この行程を「半焼鉱」「一番焼き」と言われます。
 乾燥させた鉱石は、焙焼炉(ストール)に移されます。1基あたり約11トン投入され、一ヶ月かけて焼鉱したようです。焼くと言っても高熱ではなく、鉱石が溶解しない程度の温度で燃焼し酸化させ、硫黄分を取り除き、精錬の予備処理を行います。煙は煙道を通して山頂の煙突から出しました。
 そして焙焼炉で処理した鉱石を、溶鉱炉に移します。1基に7.5〜11トン投入し、溶媒として石灰を加え、木炭と薪を燃料として含銀鉛(鉛99%、銀0.9%)を生産します。精錬には1日かかり、含銀鉛は型に流し込んで製品にしました。
 ここでカラミ(鉱滓)が排出されます。そう、その捨てられた跡がカラミ原です。
 製品となった含銀鉛は馬車で川本に運び、江の川を下って浜田港から大阪へ運ばれました。
 生産高は、明治38年で約210.5トン(銀1.9トン)、明治39年で約255.4トン(銀2.2トン)でした。

大横谷間歩 入口
道路横にある大横谷間歩への登り口
ここから少し登ったところに坑口があります。


大横谷間歩説明板
「危険なので入坑は固くお断り」

大横谷間歩 坑口
大横谷間歩の坑口
写真では分かりにくいですが、かなり巨大です。

大横谷間歩 内部
大横谷間歩の内部
長靴があれば、少し入れますが危険なのでやめましょう。

 大横谷間歩の歴史は、元亀元年(1570)に小川惣助によって大鉱脈が発見され、採掘が始まった間歩です。それまでは岩屋地区での採掘が中心だったようですが、大横谷の発見により主力がこちらに移ったと考えられています。
 大横谷間歩内部は縦横に坑道が枝分かれしており、先に紹介した「水抜間歩」と立坑で繋がり梯子で行き来できたのですが、現在は坑口から150mの場所で岩盤が崩落しており、通ることができないそうです。

久喜銀山 案内地図
久喜・大林銀山の案内地図

 この銀山地域一帯は、観光用に随所に「間歩」「坑口」「寺院跡」の看板が立ち、まさに石見大森銀山に匹敵するほどの一大歴史公園となっています。

 それにしても寺院跡が多いですが、2000人も住んでいた地域ですから当然のことで、銀山閉山後は各地に移転したらしく、邑南町内にも久喜・大林から移転した寺院が現在も存在するようです。井原の満行寺などもその一つですね。

 なお、銀山で使われた道具などの資料は、邑南町郷土館に展示されていますので、合わせて訪問してみましょう。

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 ※参考……久喜大林・銀山の里散策マップパンフレット(瑞穂文化研究会)
      「石見の銀山」のなかの 『久喜・大林銀山』(いわみの種) 共に吉川正氏による。

(2010年4月・2014年4月)

 

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