島根県邑南町井原の城跡
ここでは、島根県邑南町の石見地区・井原の城跡を紹介しています。
雲井城(邑南町井原 天蔵寺原)
井原は平安時代から「久永の庄」の範囲内にあったと言われ、交通の要所として栄えた場所です。
鎌倉時代、その井原を統治した井原氏の居城が、雲井城(地図)です。
築城時期は鎌倉期とみられ、初代城主は雲井弾正(井原長門守)。
井原氏の出所については、石見誌には「川合連活麿の後裔」として物部氏と関係づけられていますが、ハッキリしません。
また「久永氏」が地頭として城主だったという記述もありますが、それも定かではありません。
さらに石見家系録には駿河国庵原郡の出とあるようですが、それも不自然なものと石見町誌では述べられています。つまり井原氏は出所不明なのです。
いずれにしても、田所の「二ツ山城」の出羽氏の勢力内に井原氏が存在したことには違い有りません。
しかし康安元年(1361)、阿須那の高橋氏によって二ツ山城が落城した際、出羽氏応援の為に進出していた小笠原氏がそのまま井原を治めるところとなり、井原氏も小笠原氏に属しました。
ところが、天授6年(1380)、井原信武は守護代の大内義弘により地頭職を外されたと石見誌にはあります。その理由の記録はありませんが、同年に勃発した大内氏一族内の紛争(美作事件)にて、大内義弘に叛した鷲頭美作守康弘に信武が味方した為であろうと石見町誌は結論付けています。
ちなみに、井原信武の子・信高は小笠原の庇護を受け、神南備寺境内社の神職を与えられました。また、信高の孫・信成は小笠原氏・佐波氏の抗争で永正4年(1507)に君谷で討死。信成の子・智信も小笠原長隆に従って上洛戦に参加したという記録が残されています。
地頭職を失った後も、お家再興の為に井原氏は尽力したのですね。
さて、中野・矢上は福屋氏の勢力でしたので、尼子側の小笠原氏と抗争するようになると、雲井城は平城ー稲光城の防衛ラインを築いて福屋の攻撃を防ぎました。
弘治三年(1557)4月、雲井城は毛利元就の子・吉川元春率いる石見制圧部隊により攻撃され、5月上旬に落城しました。この時の城主が小笠原長雄の次男・長秀で、落城と共に川本へ敗走しています。
その後、吉川軍は小笠原勢力下にある日和の侵攻を中野より試みましたがうまくいかず、5月中旬には、雲井城に守備隊を残して安芸新庄に帰ったといいますので、城の機能はそのまま残っていたようです。
吉川軍は、雲井城に対抗する為、東明寺山に城を構えたと伝えられます。敵が攻めようとすると雲が出て、城を守ったという伝説(下の民話参照)があるほどで、それほど雲井城は難攻の城でした。
ただし、最近の調査では東明寺山には陣を置かなかったと見られています。つまり毛利特有の陣城遺構が存在しないのです。雲井城の向かいの山には「陣在地(神在寺)」と呼ばれる地名が残っていたり、また城から北へ離れた場所に削平地が見つかったという情報もあり、今後の調査に期待したいところです。
この雲井城に、井原南自治会館の裏側から登ったことがあります。
斜面は極めて急。そもそも城の南側は井原川が流れ平坦な地がありませんから、こちらから攻めることは容易なことではなかったでしょう。
山頂には広い削平地があり、本丸、二の丸、三の丸と推定されます。本丸は直径約30メートルの円形。本丸北側の尾根沿いには規模の大きい堀切があり、また三の丸下にも大きな堀切を設け、尾根沿いからの攻撃を遮断しています。また、南西側の尾根沿いにも広い削平地や土塁、堀切も認められます。
また、本丸から南東方向の尾根沿いにも、数段の郭跡が見られるそうで、南側からの攻撃も警戒した様子が見られるそうです。
草木で荒れ果てておりますが、旧石見町内では熊ヶ峠城に継ぐ大城で、その面影は現在も残っております。
実際には天蔵寺近くから雲井山の登山道があるようですが、おそらく城跡までは行かない道だとは思います。猿対策の為に夏には草刈りされるそうです。是非山道など整備して、訪問しやすいようにして欲しいところですね。
なお、秋田県の方が登山され、詳細なレポートを書いておられます。サイト「北の城塞」の「雲井城」の項を参考にしてください。
上の写真は、井原の町から見た雲井山です。左側の高い部分が本丸、二の丸、三の丸がある部分。右側に延びる標高差の無い尾根にも郭が存在します。
ちなみに、雲井城の北側、天蔵寺原にて弥生時代から中世にかけての大規模な官衙的集落があったことが発掘調査によって判明しています。
おそらくは、久永庄の中心だったと考えられ、現在の天蔵寺あたりに中心となる館があったのでしょう。そうなると、雲井城は詰めの城だったとも言えます。
>> 「久永の庄」と天蔵寺原遺跡
(『石見の城館跡』より引用)
雲井城の蜘蛛
井原地区に残る民話に「雲井城の蜘蛛」という話があります。『石見町の民話集』によると、雲井城を敵が攻めようとすると、濃い霧や雲に包まれて攻撃ができず、おかげで難攻不落の城であった。その雲井山のふもとを流れる谷川に、天蔵滝という水汲み場があった。しかしそこでは、毎年女が一人、大きな蜘蛛にさらわれており、民はいつも不安でおびえていた。
そこで雲井城の侍が蜘蛛を退治したのだが、それ以来、戦の時に城を包んだ霧が出てこなくなり、あわれ雲井城は落城してしまった、という話です。
つまり「雲」と「蜘蛛」をかけたダジャレの民話でありました。
ただ、これは雲井城の水の手を敵に取られたことにより落城したことから生まれた話ではないかと考えられます。あくまで私の勝手な推測なのですが、事実、最近城の北側尾根で見つかった削平地は、毛利側が雲井城の水の手を占領した跡と考えられるそうです。
迫田
井原地区の沢久谷に「迫田」と呼ばれる田があります。ここは雲井城主久永氏が落城の際に切腹した場所と伝えられ、以前は古びた小祠もあったそうです。
井原川左岸には田に蛭(ヒル)が多いけれど、右岸の迫田付近のたには蛭がいないという。これは久永氏切腹の時に流れた血のために、蛭がいなくなったという話が伝えられています。
平城(邑南町井原 普明寺)
雲井城の前線基地の役割を果たしたのが平城(地図)です。伝承では、井原氏が中野方面からの敵を防ぐ為に築き、井原丹後守が城主であったと言われます。
場所は国道261号線の井原交差点の北西の山。元鳥居町長の所有していた山だそうですが、この山頂には広い削平地と帯郭、虎口、堀切、そして北側に畝状空堀群が存在します。主郭部分は円形でうず高い部分があり、これは中山古墳群の一部となる墳墓のせいです。
弘治三年(1557)の吉川軍の雲井城落城と共に役目を終えたのでしょうが、おそらく永禄4年(1561)に毛利氏と福屋氏が戦った時にも使用され、毛利氏による改修があったと思われます。
>> 井原・平城 写真集
稲積城(邑南町井原 西野原)
稲積城は、雲井城の前線基地として築かれました(地図)。城主は稲光内蔵亮で、この城と平城を結び井原防衛ラインが敷かれました。
弘治三年(1557)の吉川軍の雲井城攻撃により、落城したと見られます。
山頂には削平地があり、ちょうど中山古墳群とも重なるようです。
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