邑南町の変遷を航空写真・地図で見る
ここでは、邑南町内やその周辺で廃村・廃集落となった地の変遷を、航空写真や地図で見てみるコーナーです。
邑南町(旧石見町)日和 今原集落
邑南町日和地区の今原は、今では立派な林道が通り、自転車レースのコースになるほどアクセスしやすい場所になっていますが、かつては訪問が困難なほど奥地の集落でした。
標高500mのなだらかな盆地であり、『石見町誌』から今原の説明を引用しますと、
「高燥な盆地の稲は青く土はあくまで黒い。盆地の中程には京太郎山の山側から落石と土砂が押出して盆地を二分し、盆地床には湿原性の榛木が繁っている。もしここに泥炭か埋れ木が発掘されたら過去の湖沼跡に違いない。見つけたのは土師器の破片とたたら跡の鉱滓と、そしてこの故地に居残って杉の苗圃に取り組んでいる一人の逞しい青年であった。聞けばここにあった長円寺は中野へ移転したという。恐らく天台華やかな時代ここは相当な集落があり、周辺の一角には熊ヶ峠城が聳えて矢上盆地を眼下に見下ろしていたであろう。それが今残留農家わずかに四戸、町内過疎第一の典型地であった。(『石見町誌』(上巻 P230:昭和47年5月発行))
戦後、今原を開拓したのは他府県からの入植者でしたが、昭和48年までにすべて離村しました。
実際に跡地に訪問した際の記事はこちら。
現在の今原(Googleマップ)
昭和27年の今原周辺地図
(地理調査所発行1/50,000地形図「川本」(昭和27.2))
(以下、航空写真は国土地理院国土画像閲覧システムより引用)
昭和22年(1947)の今原
山根原からの入口に民家と少しの水田がありました。
昭和39年(1964)の今原
戦後の入植により大規模な農地として生まれ変わります。
昭和51年(1976)の今原
残念ながら、既に耕作はしていない模様。
今原地区中央を拡大(1976)
長円寺跡は中央赤い屋根の南側平地です
昭和63年(1988)の今原
ああ……
平成10年(1998)の今原
すっかり人の踏み入れる土地ではなくなりました。
平成15年(2003)の今原
立派な林道が通されました。
平成22年(2010)の今原
周囲で大規模な伐採が行われ、禿げ山となっています。
しかし矢上・日和からは見えないので、その激しい変化は知られることなく……
実際の今原(撮影:2010年)
今原の水田跡地(撮影:2010年)
今原での生活を伺わせる当時の新聞記事があります。
これは「三八豪雪」と呼ばれる昭和38年1月に起こった出来事を記していますが、よほどの困窮状態だったことが分かります。そりゃ離村しますね。
(以下、引用)
昭和38年1月30日
食料底をつく 石見町日和 生活苦の今原開拓地
二十九日午後、県豪雪対策本部邑智支部に入った連絡によると、邑智郡石見町日和、今原開拓地では調味料、副食もなくなり米も三、四日分しかないと緊急救助方を同地区前田営農指導員を通じて求めてきた。
今原開拓地は日和の町部から約六キロ、標高三百五十メートルの山地に九世帯二十四人が入植しており主に木炭を生産しているが、九戸のうち四戸が生活保護を受けており、残る五戸も貧困家庭。現在、約五〇〇戦地の積雪で住宅もほとんど埋まり、残り少ない米を食いのばしているという。
外部とは有線放送でかろうじて連絡できる状態にある。
同支部では直ちに石見町役場に対して実情調査と、入植者のうち生活保護世帯四戸の扶助料を即刻支給するよう指示した。また同町役場は日和農協に対し、同農協保存の食料などを支給救援輸送するよう要請した。
なお同支部の話によると、さる十八日、同開拓地から数人が積雪をおかして日和まで生活物資の購入に出かけたが、日和でも物資が残り少なく売りしぶり、一行は何も買えず怒って引き返したという。
>> 廃集落の変遷シリーズ一覧
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