戦国の石見を探る……邑南町の城跡や史跡を紹介

島根県邑南町(旧 石見町、瑞穂町、羽須美村)の城跡や史跡・遺跡を紹介しています  

管理人の覚え書き

 ここでは、当サイト管理人の城跡訪問の余談や、覚え書きなどを記しています。

 ※写真が表示されない場合は、ページの再読み込み(リロード)してみてください。

 

◆二ツ山城の古い曲輪跡と永明寺集落

 邑南町で最大の山城である「二ツ山城」は、貞応2年(1223)に富永朝祐によって築かれたと伝えられています。ただ、この築城時期については不明な点も多く、おそらく実際はもっと後と思われます。
 ただ、二ツ山城は正平16年(1361)に阿須那・藤掛城の高橋氏によって攻められて落城したことは間違いなく、南北朝時代という古くから出羽氏の本拠地でありました。

 現在二ツ山山頂に見ることができる城跡は、戦国時代の姿であり、出羽氏が毛利元就の六男・元倶を養子に迎えた時の形を残していると思われます。ともかく南北朝時代の出羽氏の勢力から考えると大きすぎる城郭。毛利勢と尼子勢が戦った出羽合戦の時でも、出羽氏は300ほどの兵力しか出せていません。この地域で百人の兵を出すことは、至難の業であったのです。

 ただ、二ツ山の南に延びる尾根に、どうも古い時代の郭が残されているようで「南出城」と呼ばれています。出羽氏は現在の永明寺集落に居館を構えたと伝えられており、その詰めの城として尾根筋に築城したのが始まりだったのでしょう。
 その居館跡のなごりと、二ツ山城に残る古い曲輪跡を紹介しましょう。

永明寺地区

 永明寺地区。二ツ山城主の居館があったと言われ、それに関する地名も残されています。

土居の内

 二ツ山城への登り口。「門」の地名を持ちます。
 写真右の社がある丘と写真左の丘の間を「土居の内」と言い、おそらく居館跡。丘は土塁の役目をしていたのでしょう。社の部分は、過去はもう少し高かったそうです。
 後方の山は、二ツ山城から南に延びる尾根で、ここに古い曲輪群が残されています。

二ツ山城への登り口区

 乗用車で登れる道なのですが、今日はご覧の有様。

豪雨の爪痕

 平成24年の豪雨により路肩が崩れた箇所があり、いつ直るとも知れませんので、ご注意を。

尾根の山道

 中腹の切り通し部分から、南方向尾根沿いに向かって下る山道があります。

山道

 この道はかなり掘り込まれているので、かつて相当の通行量があったのでしょう。
 「殿様道」と呼ばれ、居館から城の馬場跡まで通じており、重要な役割を果たしたと言えます。

堀切?

 道は途中で折れ曲がり、麓へ下りて行きます。
 まるで尾根を遮断するように堀切状態になっています。

二ツ山城旧主郭

 尾根の頂部、古い曲輪跡です。やや削平は甘いです。

帯曲輪

 削平は甘いのですが、周囲に帯曲輪を設けており、明らかに城跡であることが分かります。

腰郭

 ぐるりととりまく帯曲輪。更に尾根筋に数段曲輪を設けています。

古い曲輪群

 さらに尾根筋の南が古い曲輪群の最高所となります。
 ただ、雰囲気として上で紹介したものが主郭であると私は思います。

最高所の郭跡

 尾根最高所の郭跡。削平は甘く、自然地形を残していると言ってもいいぐらい。

堀切

 ただ、堀切も見られ、明らかに加工の跡があります。

二ツ山城 竪堀

 この古い曲輪を持つ尾根は、巨大な竪堀によって二ツ山城跡とは完全に分断されています。
 紹介した曲輪群は、戦国期には全く使われなかったものだと分かります。
 実はこの竪堀は平成元年に発掘調査が行われており、堀の上幅5m、底幅1.45m、深さ3mの箱薬研型の堀であったことが分かっています。かなりの規模ですよ。
 殿様道は通常、この竪堀に橋を架けて通っていたものと思われます。

竪堀断面図

 竪堀の発掘調査による断面土層図。相当の規模であり、これを攻め越えようとするには相当の覚悟が必要ですね。(『二ツ山城跡竪堀跡確認調査概報』より引用)

 永明寺集落には、居館跡を思わせる字名が多く残されています。
 「土居ノ内」「門」「弓場」「フロガダン」「小丸」「ハセ切」「口ノ切」などがそれで、「永明寺」「寺ノ内」「クリノツマ」は寺院があったことを示します。「鈩ケ谷」「ナベ山」はおそらく製鉄関係の地名と思われ、二ツ山城下には居館だけでなく兵の訓練施設や寺院、鍛冶鋳物の施設が立ち並び、にぎやかだったことでしょう。
 ちなみに集落名となった寺院名・永明寺は藤掛城の高橋氏による二ツ山城攻めの際に炎上した、と伝えられています。

(撮影:2014年12月)

 

 >> 史跡訪問日記:一覧へ

邑南町の城|中世・戦国の石見