島根県邑南町の城跡

邑南町の観光名所、歴史の紹介

ここでは、島根県邑南町内にある歴史スポットや観光名所などを紹介しています。

毛利勢と尼子勢が激突した出羽合戦

 永禄元年(1558)二月、毛利勢と尼子勢の両軍合わせて1万騎を越える兵力で争われた野戦が、邑南町出羽の地であったと伝えられています。これを出羽合戦と言います。

 ことは、大朝の吉川元春が、川本温湯城の小笠原氏を攻撃する為に、一千余の兵力を持って出羽二ツ山城に着陣したことに始まります。
 他、福屋氏1500、出羽氏300の兵力も加わったところを、和田別当城の本城常光が見て、小笠原に相談します。

「毛利は数万の軍勢で小笠原の温湯城を攻めようとしているが、今吉川元春がわずかの手勢で出羽に着陣した。ここで私・本城と小笠原が協力して攻めれば元春勢を切り崩すことができます。この件を尼子晴久様に注進したところ、来る十五日に牛尾遠江守、湯信濃守、宇山飛騨守に五千騎余を差し遣わせると返事がありました。小笠原氏も出羽に打って出て、元春を挟み撃ちににして討ち果たしましょう」

 かくて尼子勢が別当城に着陣。全部で八千余騎の兵力となります。それを二手に分けて、二月二十七日、吉川元春勢へ押し寄せました。
 対する元春軍も二手に分けて、今の上和田地区のあたりで合戦が始まりました。

別当城
和田・別当城

 吉川軍の先陣は福屋氏ですが、尼子勢に対しては小勢なので、馬防柵を一重設けて待ち構え、襲いかかる本城常光・小笠原勢に散々に矢を射かけます。
 ひるんだ本城勢に、福屋勢は攻めに出ますが、それを見ていた牛尾勢一千が入れ替わり攻め入ります。

 劣勢となった福屋勢に、後に控えていた出羽元実三百騎が助けに入り、乱戦となります。
 さらに宇山、湯の四千騎が吉川元春本陣を突き、4、5時間ほどの戦いとなりました。

 両軍疲れたものの、どうも吉川側が分が悪い。そんな時、この合戦を聞きつけて備後の杉原盛重の八百騎が駆けつけます。この加勢に吉川軍の士気は上がり、出雲勢はひるみます。
 そこを元春は攻めに転じ、本城常光も奮戦するものの、杉原の軍に突かれて撤退。追撃されて、百五十人余りの兵が打ち取られます。

 やがて安芸吉田より熊谷、三須、天野など三千騎が加わり、更に益田氏、佐波氏も二千余騎応援に来るとあって、その援軍の多さに、出雲勢は完全退却。小笠原長雄は温湯城にこもります。

 吉川元春は、その後北進し、布施の赤羽城、日之宮の宮内城、山南城を攻略して矢谷の笠取山へ進出しました。

 これが出羽合戦の流れです。
 以下に、この出羽合戦について記された『陰徳太平記』の部分を引用しましょう。

永禄元年二月初旬、吉川治部少輔元春、芸州新庄の日山の城を打出で、其勢一千餘騎にて、石見国出羽へ着陣ありけり、
是は小笠原長雄父長徳以来吉川家に対し親昵を尽されしが、いつしか其義を忘れて尼子修理の大夫晴久に一味しければ、かれを退治せられんが為に父元就に先立って発向し給ひけると也。 此由を聞いて出羽元実三百餘騎にて一番に馳加はり、福屋式部大輔隆兼一千五百餘にて馳せ参ず、
爰に下出羽に在りける本庄越中守常光は、小笠原弾正小弼長雄へ軍使を遣し、元就数萬騎にて近日当国へ出張し、先ず温湯を取囲み其次は某が城を攻めんとの仕度にて候ふ由聞え候然るに元春わづかの勢にて上出羽に着陣にて候、貴方某一手に成りて合戦せば切崩すべき事案の内に候といえども、牛角の勢にては勝利危く覚え候ふ故、多勢を以て易々と追崩し候はんと存じ、早打を以て晴久へ注進して候へば来ん十五日、牛尾遠江守、湯信濃守、卯山飛騨守に五千餘人相添へて当地へ差出さるべしとの返事にて候、長雄御事も其節上出羽へ御出張候へ、両方より挟みて元春を討取り申すべく候也と云い送りければ、長雄之を聞いて大に悦び其約を成して待ち居たり、
かくて、其後雲州勢約束の如く本庄が館に着きしかば、諸勢を合わせて八千餘騎に成りぬ、やがて是勢を二隊に分ち、先陣は本庄常光、小笠原長雄、二陣は牛尾、卯山、湯と定め、同十七日上出羽へ打って出で、本庄、小笠原三千餘騎にて一番に進んだり、
芸州勢も前後二陣に立て、自国なればとて福屋一千五百一陣に進み、二陣は吉川元春一千余餘騎、出羽元実は三百ばかりにて一陣にても二陣にても弱からん方を救はんと控へたり、
福屋式部の大輔、其の子彦太郎は、元来小勢也ければ柵の木一重結わせ、是を便として待ち懸けたり、 本庄父子是を切破らんとする所を、福屋勢に福屋越中守正安、小林大和守正次等矢先を揃へて散々に射立て、敵少し漂ふと見てまっしぐらに突いてかかりける間、本庄、小笠原難なく突立てられる。
牛尾遠江守一千許りにて入代へたれば、福屋負色に成りける程に、出羽元実三百餘騎にて助け来り、入乱れて散々に戦ひけれ共、出雲勢已に勝色に成りしかば、卯山、湯四千餘騎、爰に揉めやとて元春の本陣へ切ってかかる。
吉川勢一千餘騎渡り合ひ、辰(午前八時)の一点より午(午前十二時)の刻迄防ぎ戦ひたれば、敵も味方も疲果てたる所に、杉原播磨守盛重、去んぬる正月杉原の家督相続し、今度石見へ越え元春の魁せんとて備後国より八百餘にて打出でけるが、道にて出雲勢多く本庄が館へ著きたりと聞いて、いまだ合戦始らざる先に馳せ着かんと終夜急ぎて馳せ行き、出羽表を見渡せば合戦既に半也ける間、かくあらんことこそ思ひつれとて鞭に鐙を合わせてかかりけり、
新庄勢後より味方馳来るを見るに旗の紋三巴也、小早川隆景か左無くば杉原盛重にてぞ有るべきと大きに悦び勇みければ、敵は鷲破寄手の陣へは吉田より加勢韋の来るはと云ふ程こそあれ、はや退冑に成りて見えければ、元春、敵は引くぞ、一揉もんで切崩せよやと、采配を打振りて自ら真先に進み給へば、諸勢一度に懸けりけり、
雲州勢堪へかねて引き退きけれども、本庄は聞ゆる勇士なれば猶も留りて戦ひける所に、盛重馳着いて敵の馬手の方より横合にかかりける間、小笠原忽ち押崩されて引いて行くを、追懸け追懸け百五十餘人討取りけり、 されども敵は多勢也ける故四五町許り追い立て、やがて士卒を引返し、又備を堅くして控へたり、 本庄、牛尾等は覚えず数十町引きたりけるが、敵陣へは吉田より次第次第に勢の馳加はると聞きて、其後は戦はん共せざりけり、
吉田へも出雲勢石州へ打出でたりと注進有りければ、熊谷伊豆守、同兵庫助、三須筑前守、天野民部大輔、山県筑後守以下三千餘騎加勢として差遣はされ、益田越中守、佐波常陸介等も二千餘騎にて馳加はりける間、小笠原は吾が城に籠り身構して戦はず、牛尾、卯山、湯は大田迄引き退き、本庄は己が城に入りて、地の利に就いて敵を防がんとしている程に、其後合戦はなかりけり
(陰徳太平記上、巻第三十二、石州出羽合戦之事)

 地元に残る「矢広原」の地名は、この合戦にちなむものとも言われます。
 この後、毛利軍は邑南町日和の日和城を攻め取り、五月には温湯城を包囲して小笠原氏は降伏しました。

 素直に考えて、尼子側の戦力も作戦も吉川側に勝り、実際に合戦も優位に進めていたように見えます。さすが武勇すぐれた本城常光。
 ただ、不自然な点も多く、この合戦の根拠が陰徳太平記の他に無く、実際にあったかどうか疑問視する声もあるので、取り扱いには注意が必要です。

上和田
かつての激戦の地も、今はのどかな田園風景

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