邑南町の観光名所、歴史の紹介
ここでは、島根県邑南町内にある歴史スポットや観光名所などを紹介しています。
駆逐艦「雪風」乗務員の壮絶な体験記
島根の山奥、田舎とはいえ戦争時には召集令状が容赦なくこの地に届きました。
日頃、持っていたのは鍬や鋤だった手には銃が持たされ、過酷な戦場へと駆り出されていきました。
その戦争体験記は様々な形で残されていますが、邑南町(旧石見町)矢上出身で、「奇跡の駆逐艦」と呼ばれる「雪風」の乗務員だった方のインタビュー記事が『矢上百年誌』に掲載されています。
ここに引用して、戦争の悲惨さをみなさんと共有し、平和を求めるきっかけとなればと思います。
※駆逐艦「雪風」……太平洋戦争の主力駆逐艦であった甲型駆逐艦の中で、唯一終戦まで生き残ったので「奇跡の駆逐艦」と呼ばれる。初戦は昭和16年のスラバヤ沖海戦、そして戦艦大和の沖縄特攻まで主要な作戦に参加し、戦果をあげつつも大きな損傷を受けることがなかった。
駆逐艦・雪風
ガダルカナル島の撤収作戦
太平洋戦争も、開戦以来昭和十七年中頃までは、連戦連勝、破竹の勢いでしたが、ガダルカナル島に進攻してその勢いは止まりました。制空権、制海権共に敵に奪われ、弾薬、食糧の補給は全く途絶え、三万の友軍は、食糧の欠乏とマラリヤの疾患のため、戦力は皆無の状態にあり、昭和十八年二月に撤退を余儀なくされました。
そこで私たち海軍の駆逐艦が撤収に向うことになりました。昼は敵機の来襲が激しく、薄暮から夜中に作戦を行い、夜明けまでには 拠点ラバウルに帰らなくてはなりませんでした。駆逐艦より大発艇を降ろし、陸に向いました。 私は艇長として艦とガダルカナル島の間を何回も往復しました。 ガダルカナル島に接岸し、そこで見た陸軍の友軍の姿は唖然とするはかありませんでした。 これが世界に冠たる皇軍、無敵陸軍の姿であろうかと眼を疑うようでした。 長い間の飢餓のため骨と皮ばかりにやせ細り、半年以上のジャングルの逃避行と敵の襲撃に逃げまどうために、服はボロボロに破れ裂け、服ではなくボロを身に巻きつけていました。顔には活気はなく、笑顔はもちろん、話す言葉もありませんでした。 何県の誰かも分かりませんが、 これも日本人に違いありません。 この姿を故郷の肉親に見せたらと、胸のつまる思いでした。 しかし、 そんな感情に迷ってはいられませんでした。 大声で叱咤激励し、士気を鼓舞しながら仮橋の薄い板の上を誘導し艇に乗せるのですが、大部分は、 ヨロヨロとしか歩くことができないか、または、誰かに支えられてやっと歩ける兵隊たちでした。 荒れる波、ゆれ動く板橋に何名かの兵士はバラバラと海に落ちました。 それをいちいち救ってはおられませんでした。 心を鬼にして、見て見ぬふりをして指揮をしました。せっかく海軍の艦隊が救援に来たのに、 海に投げ出され、泳ぐ力もなく、見捨てられた兵士たち、見返りもせず遠ざかる戦友たち、軍艦の後ろ姿を見送る兵士たちの気持ちを今にして思う時、大きな胸の痛みを感じます。
戦争はまさにこの世の地獄の出現です。
沖縄特攻作戦の雪風(左手前)。右奥が戦艦大和
悲壮、戦艦 『大和』の最後
昭和二十年四月六日、午後四時、戦史空前の水上特別攻撃隊は沖縄作戦の殴り込み攻撃に、戦艦「大和」を旗艦として最後の突撃を決行した。 全艦共に燃料は片道のみ。 「大和」も三千トンの原油を積み、そのため徳山、呉の海軍燃料タンクは空になった。 日本海軍もとうとうここまで来たかと、私は悲壮な気持ちになった。時あたかも内地は早春、去りゆく徳山、四国の陸には桜が満開だった。 これが日本の見納めと桜の花に名残を惜しみつつ、 日本の最後の勝利と安泰を祈りつつ、波をけたてた。
明けて七日、午前七時、艦隊は輪形陣を編成し速力二十四ノットで一路南下した。 八時過ぎ頃、友軍の護衛戦闘機「零戦」二十機は翼を振って我等の武運を祈りつつ北の空に引きかえした。 午後0時三十二分、敵の大集団が、次々と敵機隊の空母より発進して襲いかかって来た。 これより飛行機対水上艦隊との壮烈きわまりない決戦が開始された。 敵の艦爆機は、西から南から大空を覆う如く無数に、際限なく急降下爆撃を繰り返した。当日は雨雲が低くれこめ、これを利用して米機は次々と来襲した。 「大和」の誇る対空高射砲は十分の威力を発揮できなかった。 それでも四十六インチ主砲が一斉に火を噴き、米十八~二十機が一瞬に撃墜される展開もあった。主砲のみならず二十四門の高射砲、百五十門の機関砲が火ぶたを切り、砲身も焼けよとばかりに撃ちまくった。 来襲する敵の殆どが 「大和」に集中し攻撃を加えた。二〇〇キロ爆弾が十発、 二十発と命中したが 「大和」はパッパッと青白い火花が散るだけで何ともなかった。 さすが世界に誇る不沈戦艦だ。その中、敵機は魚雷攻撃に変更した。大型魚雷が十発あまり当った。 「大和」はそれを避けるため右に左に舵を切り身をよじらすようにして進んだ。敵も沈着に攻撃した。 左舷に爆弾が命中すると、全機が一斉に左に攻撃を集中した。 やがて 「大和」の動きは止まり左五十度に傾いた。 このままでは沈没するので右舷機関室に海水を注入した。 水面下の機関室には、空の死闘をみることなく立ち働いている機関員が居たが、一瞬にして黙殺された。 激闘二時間三十分、「大和」 より 「我自沈す」の連絡が入った。 退艦命令が出たらしく、無傷の将兵は次々と海中に飛び込んだ。 午後三時ちょうど「大和」の艦体は急に横転し更に九十度以上回転したのち、大爆発を起した。船底の爆薬庫に引火したらしい。 天に沖する大黒煙と赤い火柱。 明治以来九十年、海国日本の護りについていた輝かしい歴史ある日本海軍の象徴らしい最後で、静かに海底深く沈んでいった。見るも痛ましい、悲しい息詰まるようなこの光景を、私はこの眼でしっかりと見た。 乗員三千三百名、助かった者は二百二十名余、司令長官、伊藤整一中将、艦長有賀大佐、共に艦橋に自縛し、壮烈な戦死を遂げた。
旗艦「大和」と共に撃した「矢矧」「浜風」「朝霜」「霞」はすでに敵の空爆により沈没、「磯風」「涼月」は共に大破して航行不可能、 沈没寸前であった。 「冬月」「雪風」 共に中破、辛うじて浮いていた。「初霜」のみ健在であった。
この時「作戦中止、救助活動開始」の指令が出た。 私の「雪風」 は、海に投げ出された戦友の救助に当った。無数に浮かんだ浮遊物につかまって泳いでいる兵士たちを助けた。手製「救命器具」を海中に投げて艦に引き上げた。しかし、波が高く、なかなか思うようにならなかった。 元気のある若い者はよいが、傷ついたり、弱い者は次々と波間に沈んだ。 私も佐官の標章をつけた高級軍人ひとりを救おうとしたが、すでに年齢も高く、体力も弱っており、どうしても救命具につかまる力がなく、何回も試みたがとうとう海中に姿を失った。 やがて日は暮れ、救助活動も闇に包まれできなくなり、佐世保基地に寄港することになった。 波間に残した友軍に手を合わせ、心を残しながら帰還した。 (参考 「大東亜戦史・太平洋編」富士書苑)
戦艦大和の最後
念のため、発言者の氏名は省略いたしました。『矢上百年誌』には同一人物の真珠湾攻撃時の体験記が掲載されていますが、その作戦に「雪風」は参加していませんので、ここでの掲載はしませんでした。
ぜひ図書館等で『矢上百年誌』をごらんください。
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