邑南町の観光名所、歴史の紹介
ここでは、島根県邑南町内にある歴史スポットや観光名所などを紹介しています。
太田道灌の子孫が移り住んだ地、矢上・須摩谷
太田道灌と言えば、室町時代に活躍した武将です。
扇谷上杉家に仕え、かの江戸城を築いたことで有名で、今でも皇居の中には「道灌堀」という名前も残り、有楽町の東京国際フォーラム(旧都庁)や日暮里駅前にも銅像が立っています。
太田道灌像(東京国際フォーラム)
その太田道灌の子孫が、島根県邑南町(旧石見町)に移り住んで現在に至るという話があります。
まあ、実を言うと私のご先祖様なんですが。
まずは『森脇谷誌』から、太田氏の説明部分を引用しましょう。
夏目が記を接すると、太田美濃守資政入道三楽は道灌四氏の嫡流にして、源六郎康資入道武庵は、道灌か舎弟の四氏の孫なりと記せり。家の系図を見るに武庵も共に道灌の子孫なり云々とある。石見の太田も道灌三氏の孫太田道杉入道にして慶長三年(1598)秀吉公朝鮮征伐のお供仕り、帰朝の後は武門を遁れて先祖菩提の為、石洲石見於保知矢上上ノ郷須摩谷字大谷八一六九ノ一番屋敷の地に留まり民間に下り、医業鈩業を営み、家益々栄え後一族農となる。太田氏八世宝暦五年(1755)矢上村須摩谷七百拾八番屋敷に移り、屋号中の谷家を名付けて鈩業を営む。中の谷五世儀三郎、明治三十六年(1903)須摩谷の地より森脇谷三百三十五番屋敷に移り定住す。(中の谷初代権右エ門まで代々権右エ門を襲名)
つまり、太田道灌の孫にあたる太田道杉(どうさん)が豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍して帰国後、邑南町矢上の須摩谷に住んだという話なのですが、番地まで記してあって実に詳しい内容で驚きです。
この元になった資料が、幕末の慶応2年に須摩谷の太田多吉郎によって書かれた『下屋敷由来記』だと思われます。一部引用してみましょう。
抑我家は恭くも清和源氏の嫡流太田道灌の血流也。道灌三代の孫太田道杉入道という人ありて太閤秀吉朝鮮御征伐の砌御供仕り、帰朝の後は武門を遁れて先祖菩提の為とて日本回国し、終に氏矢上の郷を跡をとどめ、一向民間に下りて醫業を職とせられし処、家益々栄えて此近郷数家の竃並たるは皆人の知る処也。我父惣助より此名跡を譲り分られたれば下屋敷元祖我也。先祖は武門なれば深き因縁ありて斯く此度の軍夫も仰付られたる成べし。されば子孫すえずえ迄此由来を心得て先祖を尊敬し此書を等閑すべからずという事志か里。
皇慶応二丙寅秋七月 下屋敷多吉郎自録
太田多吉郎は、徳川幕府による長州征伐に浜田藩の軍夫として矢上からかり出され、浜田での戦闘記録を、この『由来記』に記しています。
もともと太田道灌や太田道杉といった武士を先祖に持つので、これも何かの因果かと思い書き残したのでしょう。
実は浜田の戦いについて、多吉郎の文章を『石見町誌』が引用しています。下巻の497~498ページなので、お持ちの方はご覧下さい。
『由来記』・太田道杉について記された部分
『由来記』で浜田の戦いについて書かれた部分。
慶応2年7月5日に矢上を出発し、6日に浜田着。大麻山の砦に布陣。
13日に内村内田村で合戦がはじまり、大筒の音が激しい……という内容。
さて、話を元に戻せば、矢上の須摩谷に住んだ太田道杉は、言い伝えでは医者として活躍したようで、その診察を求めて須摩谷に引っ越す人も多かったとか。田舎の医師不足は江戸時代も現代も変わりませんなあ。
道杉が亡くなる時には「須摩谷を見渡せる場所に墓を建ててほしい」と遺言したそうです。よっぽどこの地が気に入ったのでしょう。
その言葉通り、須摩谷の奥にある丘の中腹に太田道杉の墓が現在でも残されています。
太田道杉の墓
「太田道三」とありますが、当て字ですね。
墓からは須摩谷地区を見下ろせます
この太田道杉が「石見太田の祖」と言われるそうで、旧石見町内で「太田」姓を持つ家が須摩谷地区に集中している理由も分かっていただけると思います。
蛇足ですが、『森脇谷誌』で鈩業を営んだという記述は、おそらく江戸時代にタタラ経営を行った太田儀三郎のことと混同していると思われます。太田儀三郎の「中ノ谷鈩」は須摩谷の奥地にあり、今でも鉄穴流しの池が残っています。
また、明治期のタタラの経営状況を記した数少ない史料として中ノ谷鈩のものが残っており、『石見町誌』の下巻でも太田儀三郎が紹介されています。
ついでに言えば、道杉は入道名で、おそらくは「資」の字を持つ名前が本名だったと思われますが明らかではなく、「太田道杉」もしくは「太田道三」の名前を持つ人物の資料は今のところ他に見つかっていません。
まあ、太田道灌の子孫の系図は途中からかなり曖昧になり何とでも言えそうな気もします。そもそも、道杉が道灌の孫ってのが変です。道灌暗殺は1486年であり、秀吉の朝鮮出兵は1592年に始まりますので、時代に差が開き過ぎで怪しすぎます。道杉はよっぽど年老いてからの朝鮮行きになりますが、たぶん道灌から数えて五代目ぐらいなのだと思います。
朝鮮出兵をヒントに考えると、岩付太田氏の太田三楽資正は道灌から数えて四代目ですが、三楽の子・資武は結城秀康に仕え、秀康は朝鮮出兵に参加しています。太田資武も当然従軍したことでしょう。そのあたりに、太田道杉との繋がりが見えてきそうです。
それにしても、東京に出かけて道灌公の銅像前に立つと、私の胸にも込み上げてくるものがあります。ご先祖様、こんなゴミゴミした東京より、島根に来ませんか、と(笑)。
(2010年8月)
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