邑南町の観光名所、歴史の紹介
ここでは、島根県邑南町内にある歴史スポットや観光名所などを紹介しています。
小倉宮の滞在伝説がある、邑南町後原の「院の馬場」
「石見三隅史蹟」に、「井村兼雄の孫正時とその子正武が万寿寺宮を奉じて南朝を忘れず、正武の子正義は潜龍院後小倉宮を奉じて西軍(山名宗全方)に加わり、南朝の再興を謀ったが事ならず、乱後宮を供奉して石見に帰り、那賀郡七条御局給籠院谷に守護していたが、その後宮は邑智郡矢上・中野・口羽などを経て、ついに備後作木の香淀に没せられた」と記しておる。また矢上の後原に犬(院)の馬場の地名があって小倉宮の伝説が残っており、口羽には後醍醐天皇幽居の跡と伝えられる菖蒲が池がある。後醍醐天皇が当地へ行幸された史実はないので、やはり小倉宮にまつわる伝説とみるべきである。
(以上、石見町誌上巻・瑞穂町誌より引用)
小倉宮とは、室町時代に南朝の系統に属した宮家のこと。
南朝の後亀山天皇が三種の神器を北朝の御小松天皇に譲り、足利将軍義持が後亀山天皇の御徳に心服して、その子孫のために小倉宮と上野宮の二家を立てたことで始まります。
しかし、後小松天皇以降に南朝側から即位することがなかった為、南朝回復を狙う武将により小倉宮は度々奉じられ、何代か続きますが、文明11年7月に越後から越前に移ることを最後に、その後消息は絶えてしまいます。
石見での潜龍院後小倉宮(せんりゅういんのちのこくらのみや)は、小倉宮の後裔なのでしょうが、その系統は明らかではありません。
ともあれ、邑南町(旧石見町)内に残る小倉宮伝説の地「院の馬場」はどこにあるのか、探してみました。
石見町誌下巻には
矢上後原の清水田の後ろに院の馬場という所がある。これは後亀山天皇の御曾孫、潜龍院万寿寺宮又は後の小倉宮が文明5年(1473)七条潜龍院にこもられて、後木田で(文明12年)止まられ長谷矢上中野を経て口羽に出られ広島県作木村香淀で薨去せられているが、この宮が滞在せられたところということである。尚中野の阿讃坊はその時の従者であったとのことである。
とあります。
そこで屋号・清水田のお宅を訪ねてみると、住んでいた老婆は「聞いた事があるが、どこかは分からない」とのこと。
丁度家の裏が竹林だったので、そこではないかと聞いてみても「それは違うだろう」と否定されてしまいました。
「あの人なら知っているかも」と紹介されたお宅を訪問しても「聞いたことがない」との回答。
もはや忘れ去られた伝承かと思った3軒目のおじいさんが「あくまで言い伝えだが……」と、「犬の馬場」の場所を案内してくれました。
この林の中に「犬の馬場」がある(マピオン/Google Map)
案内された場所は、長さ約2,30メートルぐらいある細長い土塁状の高まりがある林の中。この土塁を中心にぐるぐると馬を走らせていたという言い伝えから「馬場」または「犬の馬場」と言われるのだそうです。
写真右が土塁状の高まり。
その周囲は平坦になっている。
土塁の先端部分。
ここで馬は折り返したらしい。
一緒について来られた、おじいさんの息子さんも「馬場なんて始めて知った」……ほとんど知られていない地名だったようです。
では実際にそれはいつの時代のことかと訪ねても「それは分からない」とのこと。小倉宮のことを話すと「そんなことは始めて聞いた」だそうで。
ただ、この場所は字名として「水晶」とも言うそうで、「火葬場があるからじゃないか」と言われていましたが、「水晶」という地名もまた天皇に関係しそうなイメージがありますね。
いやはや、私が訪ねないと、完全に消滅してしまう伝承の地でありました。
瑞穂町誌の言葉を借りれば、
応仁の乱に南朝の皇胤が西軍党に担がれ、戦乱が地方に拡大するに従って地方に流離り、やがて民間に埋没して行った過程を示す事例として興味深い。何れにしても後小倉宮が石見において三隅・福屋両氏(西軍党)の領地を経て、高橋氏(東軍党)の支配下にあった口羽・作木に移っていられることは、やはり南朝との歴史的因縁によるものであろう。
また石見町誌では井村氏のことに触れ
正武は三隅の一族井の村兼冬の後裔であって野上氏を称す。三隅は南北朝時代から南朝方として活躍していたので南朝の皇統とは歴代の縁故を結ぶようになった。南北両朝合一後も南朝方の要請があれば出張し、ことに応仁の乱に際しては三隅一族を代表して万寿寺宮・小倉宮に忠勤していたのが野上氏であったのである。ただ、正義は文明元年(1469)に帰国したという記録を信ずれば、潜龍院宮の石見下向の時期もその頃と考えられる
と下向の時期を考察しています。
後醍醐天皇滞在の伝承がある、口羽の「菖蒲が池」
小倉宮から生まれた伝承なのであろう。
ちなみに、邑南町日和の渓谷「千丈渓」の名前の由来について地名辞典に興味深い記載があります。
文明2年、南朝の潜竜院が周防から帰京の際にこの渓谷を通った伝えられることから潜竜渓とも呼ばれるそうで、そこから千畳渓となり、千丈渓となったという。
(2010年8月)
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