島根県邑南町の城跡

邑南町の観光名所、歴史の紹介

ここでは、島根県邑南町内にある歴史スポットや観光名所などを紹介しています。

妙好人・磯七の思案石

 邑南町の上田所から市木に向かう県道を走っていると、山中の道脇に「磯七同行の思案石」という石碑に出会います。(地図

磯七の思案石入口

 実際の思案石は、入り口から50メートルほど山の中に入ったところにあるのですが、山道の脇に一部岩石がむき出しになっている部分があり、そこには腰掛けるには丁度良い石が存在します。これが「磯七同行の思案石」です。

磯七の思案石
 これが磯七同行の思案石

磯七の思案石入口
腰掛けるには丁度いい巨石です

 磯七(1760頃~1851)とは、江戸時代に田ノ迫集落(地図)に住んでいた人で、この辺りでは妙好人として広く知られている人です。
 妙好人とは、仏教、特に浄土真宗の門徒の中での篤信者を指します。元来は、浄土教においてゆるぎない救いを得て念仏する者をいいますが、江戸時代に全国各地の篤信者の言動を集めた「妙好人伝」が編纂されてから知られるようになりました。
 ちなみに「妙好人伝」を編纂したのが市木・浄泉寺(地図)の仰誓(ごうせい)という邑南町ゆかりの人物ですので、それについては別の機会に紹介致しましょう。

浄泉寺
市木・浄泉寺

 磯七は若い頃から人生に悩み、死んだらどうなるのかという「後生の一大事」に驚き、浄土真宗の教えを聞き求めるようになったと言われます。実際は田所の真清寺門徒なので、そちらの法座に通う一方、峠を越えて市木の浄泉寺にも通って履善(前述・仰誓の息子)から教えを聞きました。
 そのころの浄泉寺は「石州学派」と呼ばれるほど浄土真宗学派の中心的存在になっており、履善の元には各地から若い僧侶が集っていました。

浄泉寺本堂
浄泉寺本堂

 学生僧侶に比べれば、田ノ迫という山奥で炭焼き一筋で育った磯七にとって、法座の話は難しいものだったことでしょう。しかし、死後の不安もなかなか消えない彼は、夜な夜な田ノ迫から浄泉寺に通い歩き、聞法に励んだと伝えられます。
 そんな中、市木に向かう道端の石に腰掛けて「どうすれば後生の一大事が救われるのか、どうすれば助かるのか」と、一晩中思い悩んだと言われます。その時の石が「磯七の思案石」なのです。

磯七同行の思案石
道は田ノ迫集落へと続く
ここは磯七が足繁く通った道

田ノ迫
田ノ迫集落

 ある日思案して何か得るものがあって、朝早く寺へ来て履善に話をすると、履善は「一晩思案し、また三十日思案して得たものがあるといって喜んでいても、それを当てにすると大けがする。阿弥陀如来は五劫という大変長い間思惟されて本願を成就されたのだ。自分の思案で信心頂いたと思っていては、間違いだ」と磯七を諭しました。それを聞いた磯七は「そうであった」と寺の門の前でさめざめ泣き崩れたといいます。
 その時の様子を詠った「浄泉寺 磯七泣きし 山門や 弥陀はたちてぞ 吾を向へり」という短歌(作:斎藤政二)が、現在も浄泉寺に石碑となって残されています。

浄泉寺の磯七同行の石碑

 そのように、浄土真宗の教えを真摯に聞き求めた磯七は、やがてゆるぎない信仰を得て、喜びにあふれた生活を送るようになります。そしてその、歓喜と懺悔にあふれた言動は、周辺の人々によって驚きと共に広く伝えられるようになりました。
 ある日、磯七の噂を聞いた有福の善太郎が訪ねてきました。善太郎とは全国的にも知られる妙好人の一人・山口善太郎のことです。
 浄土真宗の救い、阿弥陀仏の救済により、煩悩にまみれたどうしようもない凡夫が極楽浄土に間違いなく往生できる身に救われる。それが嬉しくて二人は一晩中法味について語り尽くし、踊り明かしたと言われます。
 後日、磯七に善太郎から礼状が届きました。そこには4枚半の半紙に「ありがたや、ありがたや」とびっしり書かれていました。それに対して、磯七の返事は、同じように4枚半の半紙に「おはずかしや、おはずかしや」の文字が連なっていたそうです。

 磯七は、喜びにあふれた生活を送り、嘉永3年12月に80歳で亡くなります。

 磯七の墓は現在でも田ノ迫に存在します(地図)。元々は、炭焼き暮らしだった為に相当山奥に墓があったそうですが、彼を慕う村人たちによって集落の脇に移されたそうです。

田の迫集落
磯七の墓は、集落の最奥にあります

磯七同行の墓
上の写真を拡大した、ここ

磯七の墓堂
磯七の墓

 かつて8軒程度あった田ノ迫集落ですが、あまりの奥地のために全戸移転してしまい、現在は住む人はありません。ところが、磯七の墓参りに訪れる人は絶えないそうで、「釈浄教」という彼の法名が刻まれた墓石のまわりは、私が訪問した時でも、とても綺麗にされ、花が供えられていました。

 周囲の人たちは磯七を讃え、思案石を通して浄土真宗の教えと彼の救いを求める姿を後世に伝えようとしたのでしょう。
 また手次の寺であった田所・真浄寺(地図)には、磯七の石碑が残されています。
 実際に何が書いてあるのか、ちょっともう読みにくくなっていますが、磯七を手本として教えを伝えようとする人々の思いが感じられます。

真浄寺堂
真浄寺

磯七同行石碑
真浄寺の磯七同行石碑

磯七の口遊み(くちずさみ)
 石見国の田野迫の磯七一人喜びに、この田の迫の磯七は今年八十になりまする。何でもこうでも近々に。命は終わるが磯七は。無始より此方つくりたる。悪業煩悩に引かされて。八万地獄のどん底え。転落まする此者を。阿弥陀如来と申します。御慈悲の深い御仏が。御手を上てのお呼声。こりゃ磯七の大罪人。罪は深くても悔るよ。障はあっても歎くなよ。其身その儘そのなりで。助けてやるぞ救うぞと。御慈悲なるお呼声。その御言に随えば。かかる機迄も御助とは。やれやれ嬉しや南無阿弥陀仏。鬼の攻苦に逢う身をば。華の台え引取りて。弥陀に変わらぬ悟とは。あらうれしやうれしや南無阿弥陀仏。

参考文献: 瑞穂町誌 /「石見と安芸の妙好人に出遇う」神英雄著

(2019年2月)

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