邑南町の観光名所、歴史の紹介
ここでは、島根県邑南町内にある歴史スポットや観光名所などを紹介しています。
石見三門の一つ「西蓮寺 山門」は未完成?
邑南町羽須美地区の阿須那まで来たら、ひとつ立ち寄っておきたい場所があります。
西蓮寺です。
阿須那から細い山道をひたすら登っていくと見えてくるのが細貝地区。
その中心とも言うべき西蓮寺は、こんな山奥に存在するとは思えないほど、歴史マニアの心をくすぐるスポットです。
西蓮寺本堂
寺院前にある案内看板によると「永禄3年(1560)下口羽の琵琶甲城主(初代)口羽下野守通良が創建。真言宗 観世音院 西蓮寺と号した」とあります。
ただ、この真言宗寺院について、伝承では南北朝時代に長野善光寺の修行僧・法信坊がこの地で修行を始め建てられたのが「真言宗観世音院西蓮寺」とあるようで、現に寺に残る地蔵菩薩像はその時代のものと思われるそうです。
浄土真宗寺院にしては奥地に存在するので、元は真言宗など他宗の寺院だったと言われれば納得できます。
その後、口羽通良によって真言宗から浄土真宗に改宗され、寺領が与えられました。
なお、案内看板には「口羽通良は毛利氏の大将としてよく奮戦して織田水軍を破り、石山本願寺へ数百艘の船をもって兵糧武器等を送り届けた」とありますが、この事実はありません。当時口羽氏は、吉川元春と共に山陰地域の治政に奔走していました。
ともあれ、口羽通良の三男・元通に泉秀との法名を賜り、西蓮寺の住職として入ります。
江戸時代には浜田藩の菩提寺の一つにもなり、石見、安芸、備後に多くの門徒を持ち、その数800戸を超えたこともあります。
さあ、この西蓮寺最大の見所は、何と言っても豪勢な山門にあります。
楼門(山門)
弘化三年(1846)起工、嘉永元年(1848)上棟。棟梁は、旭町「和田の匠」と呼ばれた名工、長山喜一郎で、その傑作として石見三門の一つにあげられている。
桁行8.3メートル、梁行4.4メートル、棟高11メートル、瓦葺二階建て、入母屋造り。
一切金釘を使用せず、扇や庇、上欄等一部未完成の部分もあるが、素木の総欅造りである。階下に六頭の竜、四対の獅子、鶴と雲が十二、花に極楽鳥、正面に雲竜、階上には竜、獅子、鶴等、華麗な彫刻で飾られている。
西蓮寺山門
さすがに石見三門の一つと言われるだけあり、豪勢な造りです。
名匠・長山喜一郎の唯一の楼門(二階建て)。工事従事者はのべ一万人だったと言われます。
特に彫刻が素晴らしく、龍は親子三体セットの傑作。中央には雲に乗る「雲龍」が、そしてその左右には羽の生えた龍「飛龍」の彫刻がありますので、訪問の際はじっくりご覧下さい。。
中央に位置する「雲龍」
左右にある「飛龍」。羽が生えています。
側面にも龍が頭を出しています。
見事な彫刻に、時間も忘れて見入ってしまいますね。
……ですが、なにやらこの山門、スカスカな感じもします。
門なのに、扉もなければ、壁板もない。
「扉がないのは仏の大慈悲心を現わす」とも言われますが、それにしてもスッカスカです。
実は、この山門は未完成なのです。
その理由は現在も謎のまま。 資金不足だったのでは?という話もあります。
地元の言い伝えでは、工事に従事していた長山喜一郎のところへ、ある美しい女性が無言で覗きに来たという。それが三晩続いた後、長山は作業をやめて帰ってしまった、というもの。
地元では、この美女は材木である欅の精霊だった、という昔話になっています。
それにしても、美女が三回訪れた、とは一体何のことなのか?
この謎には諸説ありまして、この西蓮寺山門を着工した1846年、浜田藩は財政再建に乗り出し、1848年までに3回の倹約令を発布し、献金を募りました。重税に苦しんだのは住民だけではなく、寺社からも献金を募ったことでしょう。
おそらくは、浜田藩が倹約令を出すほど財政切迫の折、このような豪勢な山門を造ることは憚られたのかもしれません。
美女が三回覗いた伝承と、三回出された倹約令、何か関係があるかもしれませんね。
また徳川幕府は諸宗寺院法度にて「寺院仏閣を修復の時、美麗に及ぶべからざること」とあり、それに触れたものとも考えられます。
山門の豪華さが幕府のお咎めを受け、長山が三日三晩考え抜いて、2階の長押や1階の格天井などを取りやめることで格式を下げる工夫をして取り壊しを免れた、という説です。
ちなみに、石見三門の残り二つは、浜田市旭町の正蓮寺山門と、邑南町市木の浄泉寺山門 。
つまり、邑南町には三門のうちの二つも存在する訳です。
市木・浄泉寺山門
旭町・正蓮寺山門
【追記】「細貝姓」と「浜田藩」の関係
先祖に「細貝」の姓を持ち、毛利に仕えた石山本願寺ゆかりの武将であったという伝承を受け継ぐ方からメールをいただきました。
その方が、この西蓮寺へ赴かれ、色々と調べられたことを教えていただきました。
ご本人の了解をいただき、その興味深い内容を記したメールを紹介いたします。
(以下、引用)============
どうやら聞けば「細貝」とは当寺院の裏の池に、淡水性の細長い殻をもった貝が多数生息していたたため、かの地を「細貝」と呼ぶようになったとのことでした。
西蓮寺の山号も「法僧可意山」と言い、細貝の地名を仏法に従って書き下したものだそうです。
これらの例から間違いなく、「細貝姓の発祥」はこの地ではないかと私は確信した次第です。
そしてやはり、周辺には「細貝」姓の家が固まっていました。
その何件かも住職のご紹介で訪ねてお話を聞きましたが、結局、自分の祖母の実家(細貝姓)とのつながりはわかりませんでした。
しかし、住職や当地の細貝さんと話す中で、そもそも細貝という姓自体が希少らしく、以前にもルーツを調べて遠くからも細貝姓の方が何人か訪ねてこられたということでした。
その中で興味深かったのは、福島県棚倉の方から来られた細貝ゆかりの方がおられたということです。
陸奥棚倉出身…それで思い当たったのは、当地が江戸時代を通じて浜田藩領であったこと。
そして幕末、浜田藩密貿易事件(竹島事件)の発覚した、当時の浜田藩主・松平松井家が懲罰転封させられた地が、かの陸奥棚倉だったという事です。
これは、あくまで推測なのですが、その転封時、何人かの郷士格か陪臣だったかの地の細貝姓の人間が一緒に付き従って棚倉へ移住した…ということではないでしょうか?
私の知る限り、転封の多かった大名家は少数の中核家臣団以外、転封地で現地の郷士や武士格の人を現地支配を円滑に進めるために、下級藩士や陪臣に採用することがよくあったというので(再度転封時には残るか残らないかは自由に決めれたようです)、かなりその可能性は強いと思いますが…。
============(引用終わり)
西蓮寺と浜田藩との関係を考えれば、十分に考えられることですね。
この件について、他に情報をお持ちの方があれば、是非教えてください。
(2007年5月)
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