戦国の石見を探る……邑南町の城跡や史跡を紹介

島根県邑南町(旧 石見町、瑞穂町、羽須美村)の城跡や史跡・遺跡を紹介しています  

邑南町の変遷を航空写真・地図で見る

 ここでは、邑南町内で廃村・廃集落となった地の変遷を、航空写真や地図で見てみるコーナーです。

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◆邑南町 井原 空田集落

 邑南町井原地区の北、空田集落はかつて「空田千軒」と言われるほど、たたら製鉄で賑わった場所と言われます。
 第二次世界大戦後、農地開拓の為に入植がありましたが、極めて奥地の不便さの為でしょう、戸数を減らし廃集落となりました。


現在の空田(Googleマップ)
野原谷から林道で5キロ程度離れた奥地

空田地図
昭和27年の空田周辺地図
(地理調査所発行1/50,000地形図「川本」(昭和27.2))

 昭和27年の地図では地名がありませんが、長崎山の南山麓が空田になります。
 (以下、航空写真は国土地理院国土画像閲覧システムより引用)

空田(1948)
昭和23年(1948)の空田、手取、田ノ原、野原谷

空田(1948)
昭和23年(1948)の空田
まだ開墾途中なのでしょうか。

空田(1964)
昭和39年(1964)の空田
整備された水田耕地であることが分かります。

廃村 空田(1976)
昭和51年(1976)の空田
既に中央部分の水田以外は耕作されていない模様。

空田1988
昭和63年(1988)の空田
もう荒れ果てています。

空田(2010)
平成22年の(2010)の空田

 空田の開墾については『石見町誌』に紹介されていますので、以下、そのまま引用したいと思います。

「ここで戦後入植した開拓地の農家はどうしているのか、現地で見たままをルポ式に述べてみよう。開拓団地は井原の空田と日和の今原である。井原の沢久谷から野原谷を通って、神在寺山と駒次山との山腹をぬうように、狭い急坂を5km登りきると急に視界が開ける。標高360mの空田開拓地である。この地の入植は昭和22年から始まり最盛時は九戸であったが、今は三戸が地山を取り囲むように水田3.5haを経営している。
 戦後食糧難時代の開拓は予想以上の難事業であった。この地にはもと人家があったといい墓標もあるが、一面の松林で道路もなければ電気もない。家を一戸建てるのに延べ200人が物資を負い上げたという。開拓もそれを支える生活も言語に絶する苦難の連続だったらしい。この困難を克服できたのはリーダー格の仁柿氏の指導力と開拓農民の団結力だと中尾氏は語った。
 現在は電気も道路も一応揃ったものの冬の交通は生活の大きな障害である。いったん雪が降れば根雪となって春までとけない。三戸では道路の管理も大変である。また児童・生徒の通学も一仕事で寄宿舎のない小学生の場合は平坦地に一軒の家を借り、冬はそこから通学させなければならない。開拓をすすめてからの願いは一握りの米でも生産し出荷することだったと言う。やっと念願かなって反収380kgから400kgになった現在「生産調整」である。この零細な開拓田に実った稲の一隅に荒廃田があった。減反地だという。それでも離農した人たちの土地を求めて現在は一戸平均1ha以上の地主であり、農用機械も田植機・刈取機以外は一通り揃えてあるが、冬には仕事を求めて山を降り、ほとんど無人に近い部落となる。長い間の重労働によく耐え、よく忍んできた人々に、その報い多かれと祈りながら開拓地を辞してまもなく、筆者のブルーバードの前に人影があり宮野原まで同乗させる。開拓地のすぐ近くの田ノ原の人である。ここも四戸から二戸に減った。最近猪が出て自動車と衝突したそうだ。都市の交通事故とくらべて至ってのどかな話である。猿も八十匹位が群れをなしていて大根を抜き白菜を抱いて逃げる。派手に設けた人形は猿よけだという。彼等は動物に作物を失敬されるから通勤百姓もできないという話を実感として聞いた」(『石見町誌』(上巻 P116:昭和47年5月発行))

空田林道入口
野原谷の、空田林道入口
(撮影:2015年9月)

空田林道
空田は入口から遥か5km先に……

 また、空田の様子をルポした文献がありますので、以下に紹介いたします。

「食料増産と、鐘や太鼓の鳴り物入りで騒がれた開拓地も、もうすっかり忘れられてしもうて、やっかい者扱いになりました」。石見町井原地区空田開拓地の仁柿さんは、はきすてるように語る。
 空田は、郡内で最高峰の冠山の中腹にある開拓地でかっては九戸のにぎやかな新天地だったが、頼りの米作を切られたいま、人里はなれた山中で三戸がひっそり暮らしている。
 空田にクワが入れられたのは、昭和二十一年。終戦とともに、食料増産の呼び声に応えて仁柿さんら十七人が入植した。雑木雑草の二十二町歩は、手のつけられない土地だったが、十七人は共同住宅でカンテラ生活にはいった。
 食料もなく、村内から小麦やイモを集めて雑炊をすすりながら、それでも将来への夢に胸をふくらませて少しずつ土地をひらいた。開墾してもすぐには作物のできない土地なので、食料の供給をうけながらも、「自分の国民のクイモノは自国の土地でまかなう。その先端にワシらは立っているのだ」という誇りと責任感が、支えになっていたという。
 そして、共同宿舎から一戸一戸が独立していき九戸の農家が建って、それぞれ煙が立ちはじめた。拓いた水田で稲作がはじまり、去年一反、ことし二反と、汗と油の結晶で米がとれはじめた。子どもたちも十人あまりが元気よく、麓の井原小学校まで八キロの道を通っていく。
 しかし、この集落に暗いカゲがさしはじめたのは、二十五年。二戸が悪条件にたえかねて山を捨てたときにはじまる。四年間「鉄の団結」でがんばってきた九戸に、タガのゆるみが感じられはじめた。あわてて村に働きかけ、道路の拡幅を願い出た。そして三年かけた二十八年に急勾配ながら幅三メートルの道路が開通し、肥料なども肩にかけなくてよくなった。
 カンテラ生活になんとか別れをつげようと、昭和三十年には自家発電所建設を思いつき、国庫補助四十万円、借入金四十万円で小さな発電所づくりにかかった。山上のことで川もなく、谷をせき止めて水溜めをつくり、約百メートルの管をひいて三十メートルの落差をつけ、三キロワットの電力を生み出すことに成功して、「近代文明」の恩恵に浴することができた。
 その間も、人力による開墾はコツコツとつづき、秋には一面に黄金波がよせるように変わっていた。
 しかし、決定的な打撃は昭和三十八年の豪雪によって訪れた。三メートルを上まわる未曾有の大雪が、四ヶ月近くもの間すっぽりと埋めてしまった。借金して作った発電所も無惨に倒壊して、忘れられていたカンテラ生活に再び戻った。この見たこともない白いバケモノは人々に、将来にたいする不安と自分たちの生活を改めて考えなおせずにはおかなかった。
 子どもは学校を忘れ、かすかに聞こえる有線放送だけが命の綱だった。病気になっても医者をよぶことができず、残り少ない売薬が命のつなだった。米はあったが副食物の手持ちがなくなり、中身のないミソ汁と漬物だけで、ほそぼそと食いつないだ。
 三月の終わり、雪もようやく少なくなってくるのを待っていたかのように、五戸の人が家を捨てて山を降りていった。機械力を入れるにしても、財力の弱い残った人たちには、山を捨てた人の水田までかかえこむこともならず、丹精こめたせっかくの耕地が、「山に帰ってゆく」のをこまねいて見ているよりほかになかった。
 その年、三十八年は統一地方選挙の年だった。仁柿さんは雪の中で、政治にたいする強い怒りをおぼえていた。
 県知事選挙がやってきた。ダンナさん・田部長右衛門の二期目への立候補である。県内で十四万票の支持をもつ社会党でさえ見送ったこの選挙に、仁柿さんは「県知事選立候補」の名乗りをあげた。世間は「アッ!」と驚いた。組織も金も地盤もない一開拓者が、出雲のお殿様候補・田部現知事に刃むかうというのである。住民運動など、組織によるたたかいを知っている仁柿さんなら、こんな方法ではなくもっと別の方法で政治を告発したにちがいない。しかし不幸にして仁柿さんは、横へひろがろうとせずに、一匹狼となって立ち上がったのだ。
 あいつはバカか気違いかという世間の野次馬的下馬評とは別に、地元の町長や親せき、地区の顔役が「おもいとどまってくれ」とおしかけ、おどしたりすかしたり、ついには「わしの町から田部にタテつく者の出せば、町政がマヒする」と哀願したりもした。
 こんななかで、当時七十二歳の老母がショックで倒れ、看病しようとする仁柿さんを、きかなくなった口をかみしめ、キラキラ光る目でにらみつけた。仁柿さんは、耐えられなくなって病床を離れた。
「わしは、いまでも間違ったことをしたとは思うとらん。豪雪のあと訪れた国会の視察団の質問に、県も町もなんら状況把握もしておらず、まともに答えられなかった。底辺を忘れた政治への不満を、私が一波乱おこすことで世のなかに訴えたかった」という。
 彼は結局、届け出をしなかった。いや、できないようにされてしまったのだ。彼が訴えたかった核心には誰も気づいてくれないまま、「人さわがせな」ということで忘れられていった。この事件で倒れた老母は、七十七歳まで、病床でだまりこくったまま死んでいった。
「私が殺したようなもんです」といまでも仁柿さんには、大きな心の傷として残っている。しかし世間はもうそんな人があったことも、また空田の開拓地のことも忘れている。
 いま空田には、三戸の農家が一反当たり三石出来がむずかしい水田・四町歩をかかえて、米作と出稼ぎの生活をくりかえしている。もちろん、「減反」の御時世のこと、開拓はとっくの昔にやめてしまった。
 集落としての機能を失ったここでは、道路修理にしても、麓の野原谷まで、留守を守る女の手にかかってくる。平年でも一メートルをこえる大雪は、女、子どもにはとても手におえない。そこで冬場となると井原の町地区に民家をかりて、子どもとともに、十二月から三月はじめまで仮り住まいをするようになった。 「家がどうなっていることやら」と、子どもがなく雪のなかに閉じこもっている人に、有線をかけてたずねるのが日課となる。
 病人がでても、とても医者は往診してくれないから集落の小型貨物が救急車に早がわりする。商売人も、わずか三戸ではガソリン代もでないし、やってこない。
 一番なさけないことは、郵便物が配達してもらえないことだ。「三日おくれの便り」ならいい方だが、わざわざ郵便局まで取りに出なければならない。それも「郵便局から有線で、郵便物があることを教えてくれればいいのだが、やっかいらしくて……」サービスしてくれないという。 「きょうはなんぞ来ておりませんかいな」……そういって局に立ち寄るとき「いったいわしらは、これでも日本人なんだろうか?」としみじみ考えることもあるという。
 食料増産の旗手であり、功労者だった開拓地とそこの農民。しかし、無策の農政が、ついに今日では、農民を過剰生産の罪人扱いにしてしまった。空田の開拓農民も、その犠牲者である。
 きびしい病いとたたかって、いまはわずかに鼓動する心臓に「生」が認められるだけ……そんな状況を空田では感じた。 (注=空田はいま石見町矢上地区に出来た新町に移った。にたような辺地であった高水などと共に、新しい住宅団地ができ上がっている。
 しかし、いまのように問題の本質を解明対応しないままでの逃げの対策ではそこが荒廃し山に還るというだけでなく、第二第三の空田が生まれてくるのである。
 現に高水は荒れ残った(ヘンないい方だが)土地で通勤農業が行なわれているが、いまここに、十億円からの巨費を投じて「勤労者いこいの村」が建設されようとしており、田所と矢上を結ぶ「広域営農団地農道」という名の国道級の観光道が貫通し、高水は決して辺地ではなくなってしまうのである。 「町の奴にだまされて追い出された」とくやしがる元高水住民の人たちに、もう一度「高水」を奪還させなければならない。
(日高勝明・浜崎忠晃著『過疎の原点から 消えゆく集落』昭和47年初版:発行 日本社会党邑智総支部 より引用)


 ……読んでいて涙が出てくる話です。こんな奥地に、夢を求めて飛び込んできた家族があったと思うと、胸が熱くなります。しかし、同じ状況で再び働けと言われても今は誰もできないでしょう。
 私の父が井原小学校出身で、同級生に空田や田ノ原から通っていた子がいたと話してくれました。8kmにも及ぶ山道を毎日徒歩で通い、よく遅刻していたとか。生活は相当厳しかったらしく、風呂にも入れずに首回りがいつもかぶれていて「本当にめぐまれない人たちだったな」とのこと。ただ、空田地区は自前で水力発電機を用意したので、井原小学校の遠足として見学に行ったこともあったそうです。

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邑南町の城|中世・戦国の石見

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