戦国の石見を探る……邑南町の城跡や史跡を紹介

島根県邑南町(旧 石見町、瑞穂町、羽須美村)の城跡や史跡・遺跡を紹介しています  

管理人の覚え書き

 ここでは、当サイト管理人の城跡訪問の余談や、覚え書きなどを記しています。

 ※写真が表示されない場合は、ページの再読み込み(リロード)してみてください。

 

◆邑南町郷土館 展示物(古代〜中世)

古代から中世までの発掘品などが展示されている部屋

方形板革綴短甲

中山B1号墳副葬品
方形板革綴短甲

中山B1号墳副葬品
方形板革綴短甲復元品

中山B-1号古墳出土品

説明書きがありませんが、日和地区寺本氏より寄贈の甲冑。
おそらく日和城主寺本氏が着用したものと思われます。

 

土師質皿(伝鷲影城出土)

二ツ山城跡出土陶磁器と火縄銃の玉

二ツ山城跡出土陶磁器と火縄銃の玉

二ツ山城跡で採集された備前焼大甕と輸入磁器
備前焼大甕 14世紀頃
採集場所 東ノ丸付近
大きさ(復元)口径約34センチ 胴部約49センチ
輸入磁器(中国) 15〜16世紀
採集場所 馬場 東ノ丸 西の丸

多胡辰敬

多胡十郎左右衛門辰敬(1497〜1562)
(たこじゅうろうざえもんときたか)
多胡十郎左右衛門辰敬は余勢城三代城主と伝えられ、尼子晴久に仕えて天文9年(1540)、吉田郡山城攻めに従軍したが毛利元就らによって撃退された。天文12年(1543)には、鱒淵寺造営を行い、鱒淵寺領の掟を定め、尼子晴久の命を伝えている。後に刺鹿城主(大田市久手町刺鹿)となった。
天文23年(1554)の元旦に月山富田城内で連歌師宗養を招いた際に歌を詠んだことが「多胡文書」に伝わっている。
永禄元年(1558)、毛利元就は川本温湯城の小笠原長雄を攻撃した。この事態を打開する為に尼子晴久は多胡辰敬らを含めた援軍を派遣したが、温湯城は降伏し、小笠原長雄は毛利氏に仕えた。
軍事にも政治にも通じ、教養豊かであった辰敬は、諸芸十七箇条からなる有名な「多胡家家訓」を記しており、自身もその家訓を一生に渡って実践し続けている。
永禄5年(1562)、辰敬の居城石見国刺鹿城にも毛利氏が侵攻する事となり、辰敬は奮戦するも城は落ち、辰敬は自刃して果てたと伝えられている。 (以上、展示説明書きより)

 

瑞穂町の刀工一覧表

御添山たたら跡(日貫)より出土の山刀

研磨する前の接収刀剣(刀身は錆びていました)
写真 上 脇差 兼久
   中 脇差 兼綱
   下 短刀 兼貞

玉鋼や、スラグなど。

(2010年4月)

 

 >> 史跡訪問日記:一覧へ

邑南町の城|中世・戦国の石見