戦国の石見を探る……邑南町の城跡や史跡を紹介

島根県邑南町(旧 石見町、瑞穂町、羽須美村)の城跡や史跡・遺跡を紹介しています  

邑南町の歴史観光名所

 ここでは、当サイト管理人の城跡訪問の余談や、覚え書きなどを記しています。

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◆「久永の庄」と天蔵寺原遺跡

 平成16年(2004)に石見町・瑞穂町・羽須美村が合併しようという時、新町名を募集された案の中に「久永町」がありました。ほとんどの人は「なんのこっちゃ」と思ったのでしょう、結局「邑南町」という名に決まった訳ですが、歴史好きにとっては「久永」ほどこの地域にふさわしい町名ではないかと思った訳です。

 というのも、平安から鎌倉時代にかけて「久永の庄」という荘園が存在し、その範囲は阿須那・高原・出羽・田所・井原・中野・矢上という広大な範囲だったと考えられています。そう、正に現在の邑南町の大部分を占めるのです。
 「久永庄」が最初に登場する資料は文治2年(1186)。京都賀茂神社領として知られ、『石見誌』によると邑智郡内の賀茂神社分布状況から前述の範囲と推測し、特に久永庄の中心を井原・中野・矢上に置き、井原が庄元であったと判断しています。ただその明確な根拠は無く、『石見町誌』も懐疑的な記述を取っています。

 むしろ、旧石見町側ではなく、旧瑞穂町側には荘園に関する「田所」「別当城」といった地名が残されています。そう「田所」は荘園の別名でもあり、「別当」も特に社寺の庄園の直接事務担当者を指す言葉です。田所、出羽地区には古くから庄園が存在し、それを支配した「別当」が関与した「和田別当城」なのでは、と推測できるのです。
 特に『石見町誌』では、別当城は決定的な証拠として取り上げ、久永庄の支配者として和田氏を有力候補としています。

 そんなことから、久永庄の中心も旧石見町側ではなく旧瑞穂町側だったのだろうと、私は勝手に思っていました。
 ところが、平成11年に旧石見町の井原・天蔵寺原にて行われた遺跡発掘調査で大規模な建物群が発見され、弥生時代から平安、中世にかけて相当規模の集落が井原に存在したことが裏付けられました。

天蔵寺前遺跡
場所は井原の天蔵寺原
天蔵寺前の田んぼになります。

天蔵寺原
井原川から少し高い位置にある緩斜面地です

 その「天蔵寺原遺跡(天蔵寺・寺の前遺跡)」の調査結果を、報告書から少し引用して紹介してみます。

天蔵寺・寺の前遺跡の調査区
天蔵寺・寺の前遺跡の調査区

寺の前区の遺構分布図
寺の前区の遺構分布図
(画像クリックで拡大)

 全体に多数のピット群や、須恵器・土師器などが出土したのですが、特に寺の前区については、弥生時代中期後葉の竪穴住居址、奈良時代の竪穴住居址群、掘立柱建物群が検出され、それぞれの時代の土器、さらに中・近世陶磁器や輸入陶磁器などの遺物が大量に発掘されました。
 その具体的な規模ですが、寺の前区からは住居址23棟、掘立柱建物跡16棟以上を数え、古墳時代には既に集落が継続され、奈良時代後半期に最盛期を持つ官衙的集落であることが分かりました。

 加えて出土品の特徴について、弥生・古墳時代のものは数少ないのですが、奈良時代後半期を中心とする時期の土器、須恵器の量と種類が実に豊富で、須恵器の円面硯の出土、また中世の輸入陶磁器、香炉が出土したことも、この集落が地域の中核的存在であったことを物語るそうです。

 ここからは推測ですが、おそらく現在の天蔵寺の位置に中央の役割を果たす館が存在し、館前には整然と並ぶ大規模な集落が存在したのでしょう。特に、天蔵寺背後の山は雲井城という堅固な山城が築かれており、鎌倉から戦国時代にかけて詰めの役割を果たしたのでしょう。

雲井城
 天蔵寺原と背後の雲井城跡

 以上のことから、久永の庄の中心は井原に存在したと言ってもよさそうです。

 実際、天蔵寺住職は「久長」の姓を持ちます。伝承では雲井城主も「久永」で表されることもあります。
『石見町誌』によると「久長」の姓は後の時代に入ってきたもので、そこから久永の庄に結びつけることはできないとしていますが、それはどうも見直さなければならないようです。
 そもそも天蔵寺は戦国期に浄土真宗に改宗した寺で、それ以前は仏心宗京都東福寺の末派でした。今でも釈迦三尊像が残り、弘法大師の作とも、恵心僧都の作とも伝わる古いものです。庄園の中心として、合わせて信仰の中心としての役割も果たしたのかもしれません。

 ちなみに、久永庄は鎌倉期に入って周辺の豪族の台頭により次第に勢力を失っていったようです。出羽氏による二つ山城築城は貞応2年(1223)と伝えられ、正応2年(1289)の文書には「社領久永庄と国領出羽郷と堺を相論する」とあり、出羽氏による侵食を受けて行きました。
 その出羽氏に対抗する為、久永庄の和田別当城主は高橋氏の配下に入ったのではないかと『石見町誌』は推測しています。あくまで別当城が久永庄の中央であると仮定してのことですが、その根拠の一つとして、高橋氏の有力な家臣・野田氏の分布が、高原から井原にかけての久永庄の範囲に繁延していることを挙げています。

 さて、少し乱暴な考察もあったかもしれませんが、邑南町の大部分を占めた庄園・久永の庄について紹介致しました。今はのどかな田園風景ですが、かつてここに地域の中心となるような大規模な官衙的集落が存在したことに間違いは無く、雲井城を含めた周辺の更なる調査に期待したいところです。

(遺跡図は「天蔵寺・寺の前遺跡 調査報告所(石見町教育委員会:2004)」より引用)

 >> 関連 井原の城跡(雲井城)

 

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邑南町の城|中世・戦国の石見

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