戦国の石見を探る……邑南町の城跡や史跡を紹介

島根県邑南町(旧 石見町、瑞穂町、羽須美村)の城跡や史跡・遺跡を紹介しています  

邑南町の歴史名所紹介

 ここでは、当サイト管理人の城跡訪問の余談や、覚え書きなどを記しています。

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◆戦時中の矢上鉱山と原山監視所、さらにタタラ

 昭和の太平洋戦争中、日本は物資に非常に乏しく、各地の銅像や寺の鐘なども集められて兵器にされたというのは有名な話。
 更には軍刀の生産の為に「たたら製鉄」まで復活したというのですから驚きです。

 邑南町(旧石見町)矢上には、その戦時中に「鉱山」が実際に存在しました。
『矢上百年誌』から、引用してみましょう。

矢上鉱山
 第二次大戦下の昭和17年頃から昭和21年まで、矢上では雲母(銀土と呼んだ)の採掘が行われた。
 主な産出地は上大畑谷の槙神(槙之元地主神)さんの近辺で約80%を産出し、そのほか大藤田(現在の桃源の家)近辺と柚木谷の奥の方で残りを掘り出していた。
 製品は、黒鉛の代用品として鋳型鋳造の時に内部の塗料として使用されて、三菱重工業広島工場をはじめ、広島市内の鋳物工場へ販売された。又、柚木谷の奥のものは、現在でも匂い、虫眼鏡でも判るくらいに硫黄分が多かったので、精製して浴用剤として使用した。
 このように一時は盛んに生産されたが、戦後黒鉛の輸入品に押されて廃業にいたった。

 現在、槙之元地主神の近くに「石見バイオ」なる工場が建っていますので場所は分かりやすいです。「柚木谷の奥の方」は場所不明。本当に今でもにおうのでしょうか、今度確認したいところですね。

矢上鉱山
上大畑谷の「矢上鉱山」跡地周辺

 

 戦時中の話をもう一つ。

 旧石見町で最も高い山「原山」の山頂に、日本軍の「監視所」が設置されていました。
 これも『矢上百年誌』から引用してみますと、

原山監視所
 昭和16年太平洋戦争が始まって間もなく、原山の頂上に飛行機の監視所が作られ、中国山脈や遠く日本海に飛来する敵の飛行機を発見して電話で浜田防空連絡所に報告する役割をしていた。
 その建設は、昭和19年に始まり地元の村々から村民が動員されて、セメントや砂、レンガ等の建設資材を背負って山道を運んだ。女の人も出夫したが、帰ったとき「男の人に負けないようにと、気張って荷をオイコに乗せたが、非常に急な坂道で重くて苦しかったよ」と話していた。
 監視塔は直径4メートルの円筒形、管理棟は東西へ3間、南北へ4間位の事務室兼宿直室と炊事場で面積12坪位のものだった。
 監視塔の中には、地上との出入り用梯子が付けてあって、特別な装置はなかったけれども空気の振動がよくわかり、外にいるよりも音がよく聞こえた。また、望遠鏡で見ると日本海を航行する船もよく見えた。
 監視員は四班編成で、班長には在郷軍人の伍長、軍曹級が任命されており、班員は地元の村(矢上、中野、井原、日貫)の青年の中から選抜され一班に数名程度いた。尚、わずかながら有給であった。勤務は24時間交替で、山頂にのぼり自炊して監視に当たった。

……と、まあレーダー監視の現代に比べて、遥かにアナログな話。
 当時の原山監視所の識別飛行機として、B29、B24グラマン戦闘機、各自国機、浜田沖航行中の船等、零型戦闘機などが挙げられています。

 終戦と共に監視所が壊されたのは言うまでもありませんが、いまでも原山山頂にはその残骸のレンガが残っているそうです。これまた「原山やまんば洞窟」と合わせて見に行きたいところですね。

原山
矢上から見た原山

 ちなみに、原山の「やまんば洞窟」に登ってビデオ撮影し、それをYoutubeにアップロードしている方もあります。

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 >>原山登山(写真と共に紹介されていて分かりやすい。山姥洞窟の案内標識があるんですね)

 

 ついでに、資源調達に苦しんだ話が石見町誌に掲載されていますので、紹介しておきましょう。

 たまたま昭和18年9月18日の大雨は、当地方を洪水の渦の中にまきこんで、道路は至る処で流され、田圃は砂原となった。小学校教員は子供たちをつれて、毎日のように砂の中から稲穂を掘り出した。その時、田圃の耕作者から提供される炊き出しの白米飯は飢えとめずらしさにむさぼり食われるのであった。
 各町村には松根油の製油工場が建ち、隣保組は各戸一名宛出夫して松根堀りにつとめた。
 松根堀りの休憩時間には、戦争のなりゆきについて、いろいろ話合われた。だれもが、「戦争に勝てるだろうか」と、憂愁に満ちていた。心の中では、「松根を掘るようでは、もうだめだ」と思いながらも、口には出せなかった。(石見町誌下巻658ページ)

 井原へ海軍予備学生の生徒がやってきて、松根掘りを手伝い、食糧増産に協力したのもこの頃(昭和20年6月)であった。もはやかれらに戦闘の装備をさせるゆとりはなかったのである。だれの眼にも敗戦の色が濃くなっていた。(同681ページ)

と、松根掘りを通して、悲惨な状況が記されています。

 また、鉄を求めて、かつての「タタラ」が戦時中に復活しました。
 この地でのタタラ経営は明治の中頃まで続けられましたが、それ以降は途絶えていました。しかし、第一次世界大戦の勃発した大正5年、軍刀を生産する為にタタラが復活し、中野村森実には神戸の鈴木組が鈩を設置。しかし大正8年には工場は閉鎖されます。
 しかし、昭和13年、日中戦争で鉄不足となり再びタタラが復活。矢上智河原に鈩が置かれ、帝国製鉄株式会社が経営しました。つまり、第二次世界大戦で使われた軍刀に、矢上産の玉鋼が利用されたのです。(『石見町誌下巻436ページ)

 話はそれで終わらず、江戸時代のタタラ跡を掘り返すという事実もあったようです。

(江戸時代に)野たたらが進んできて、鍛冶屋で小規模な製鉄をやって直ちに道具を造っていた。此の跡には「かじやとくそ」といって、鉄分のまだ多く残っている鉄滓(てつさい)が出てくる。大正6、7年頃と大東亜戦争中にはこれを掘り出して利用していた。(石見町誌下巻355ページ)

 どこどこまでも鉄不足だったんですね。
「とくそ」は、今でもタタラ跡地に行けば簡単に見つけることができます。

かじやとくそ
ごろごろ転がっている「とくそ」(矢上・中ノ谷鈩跡)

とくそ
「とくそ」

 松根に限らず、遺跡からこんなものを掘り出さねばならない戦局を、当時の人たちはどう思っていたのか……とても切なくなる話です。

(2010年4月)

 

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